レオニード・ハーヴィッツ
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レオニード・ハーヴィッツ

生誕 (1917-08-21) 1917年8月21日
ロシア帝国, モスクワ
死没

2008年6月24日(2008-06-24)(90歳没)
アメリカ合衆国ミネソタ州, ミネアポリス
国籍 ポーランド
研究機関(機関)
ミネソタ大学
アイオワ州立大学
研究分野 経済学者
母校ワルシャワ大学
Graduate Institute of International Studies
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)
影響を
受けた人物チャリング・クープマンス
ヤコブ・マルシャックコウルズ財団
影響を
与えた人物ダニエル・マクファデン
青木昌彦
西條辰義
実績メカニズムデザイン
受賞アメリカ国家科学賞 (1990年)
ノーベル経済学賞 (2007年)
情報 - IDEAS/RePEc
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ノーベル賞受賞者
受賞年:2007年
受賞部門:ノーベル経済学賞
受賞理由:メカニズムデザインの理論の基礎を確立した功績を称えて

レオニード・ハーヴィッツ(Leonid Hurwicz、1917年8月21日 - 2008年6月24日)は、アメリカ経済学者数学者。特にインセンティブ整合性 (Incentive compatibility) とメカニズムデザイン(machanism design)についての研究を行った。

メカニズムデザインの理論の基礎を確立した業績により、ロジャー・マイヤーソンエリック・マスキンとともに2007年のノーベル経済学賞を受賞した。

弟子には、青木昌彦西條辰義ダニエル・マクファデン(2000年ノーベル経済学賞受賞)がいる。
経歴

1917年 
10月革命の直前、モスクワのユダヤ人の家に生まれる。ロシア語名はレオニート・グールヴィチ(Леони?д Гу?рвич)。

1919年 生まれてすぐ家族とともにポーランドワルシャワに移った。

ワルシャワ大学で法学を学ぶ(父親はパリのソルボンヌ大学の学位をもつ弁護士であった。しかし、2年目から経済学に興味をもち、経済学の講義も受けるようになる)。

1938年 ワルシャワ大学で法学の学位を得る。

1938年 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に留学する(ハイエクニコラス・カルドアに学ぶ。なお経済学の学位はとっていない)。

1939年 ビザの延長が拒否され、難民としてフランス、スイスベルンのあと、ジュネーブでパートタイム学生として数カ月間過ごす。

1940年 中立であるスイスとスペインの飛行機でバルセロナへ行き、マドリードポルトガルリスボンを経て、(ポルトガルの)エストリルで2か月過ごす。その後、ギリシャの船でニュージャージー州へ着き、シカゴのいとこのところで暮らす。

1941年 マサチューセッツ工科大学のサムエルソンのもとで働き始める。

1942年?1944年 シカゴ大学の経済学部の統計学教員と気象学研究所所員となる。

1942年?1946年 コウルズ委員会の研究アソシエイトとなる。  

1944年 エヴリン・イェンセンと結婚する。

1946年 アイオワ州立大学の准教授を務める。

その後、イリノイ大学の経済学および数理統計学教授に就任する。

1951年 ウォルター・ヘラーに誘われ、ミネソタ大学のthe School of Business Administrationの教授となる。

1961年 ミネソタ大学のthe School of Statisticsの議長となる。

1969年 ミネソタ大学の教授(Regents Professor of Economics)となる。

1980年代 東京大学の客員教授となる。


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