レオニード・ジャボチンスキー
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レオニード・ジャボチンスキー1968年
個人情報
生誕 (1938-01-28) 1938年1月28日
ソビエト連邦スームィ・ウスペンカ
死去 (2016-01-14) 2016年1月14日(77歳没)
 ウクライナザポリージャ
身長1.89 m (6 ft 2 in)[1]
体重163 kg (359 lb)[1]

スポーツ
競技重量挙げ

獲得メダル

ソビエト連邦
オリンピック
1964年 東京+90 kg
1968年 メキシコシティ+90 kg
ウエイトリフティング世界選手権
銅1963年 ストックホルム+90 kg
金1964年 東京+90 kg
金1965年 テヘラン+90 kg
金1966年 東ベルリン+90 kg
金1968年 メキシコシティ+90 kg
欧州ウエイトリフティング選手権
銀1963年 ストックホルム+90 kg
金1966年 東ベルリン+90 kg
金1968年 レニングラード+90 kg
USSRウエイトリフティング選手権
銀1961年 ドニプロ+110 kg
銀1962年 トビリシ+110 kg
銀1963年 モスクワ+102.5 kg
金1964年 キエフ+102.5 kg
金1965年 エレバン+102.5k g
金1966年 モスクワ+102.5 kg
金1967年 ルハーンシク+102.5 kg
金1965年 ロストフ・ナ・ドヌ+110 kg


レオニード・イヴァノヴィッチ・ジャボチンスキー(ウクライナ語: Леонiд Iванович Жаботинський、1938年1月28日 - 2016年1月14日)は、19回に亘り世界記録を更新したソビエト連邦のヘビー級重量挙げ選手。1964年1968年のオリンピックで金メダルを獲得した[1][2]
生い立ち

ウクライナ・ソビエト社会主義共和国スームィ州ウスペンカ村でコサックの家庭に生まれる[3]。父親のイヴァン・フィリポビッチはアスリートだったが、ジャボチンスキーは1967年のインタビューで自分は祖父似で両親は2人とも際立った体格では無かったと語っている[2]。幼少期はザポリージャに暮らした。7年制のセカンダリースクールを卒業後、ハルキウのトラクター工場で働きながら軍隊スポーツ組織の地元重量挙げクラブでミハイル・スヴェトリーチヌィのコーチを受けた[2][3]
重量挙げ

1957年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国選手権で重量挙げ競技者としてのデビューを果し、銅メダルを獲得した[2]。同年ハルキウの教育学研究所に入り、1964年まで学んだ。1968年メキシコシティーオリンピックの開会式でソビエト連邦の旗手を務め、行進中他の全ての旗手が両手で国旗を掲げる中、ジャボチンスキーだけは片手で国旗を運んだ[2]。1963年から1974年にかけてヘビー級で19回世界記録を更新し、1964年と1968年のオリンピックで金メダルを獲得した。
私生活

1964年にハルキウ教育学研究所を卒業、1970年に教育学Ph.D.を取得した。現役を退いた後、ソ連軍で重量挙げ選手のコーチを務め、1991年に大佐として引退した。1987年から1991年まで軍の顧問及び重量挙げコーチとしてマダガスカルに勤務した。その後ロシア初の私立の高等教育施設の1つであるモスクワのビジネス・法律研究所の副所長に就任した[1]

ライザという女性と結婚し、2人の息子ルスランとヴィレンが生まれた。息子たちは2人とも重量挙げ選手になった[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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