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レオニダス1世
レオニダス王と伝わる重装歩兵の大理石像
(前5世紀、スパルタ市考古学博物館蔵)
スパルタ王
在位期間
紀元前489年?480年
先代クレオメネス1世
次代プレイスタルコス
出生紀元前540年
スパルタ, ギリシャ
死亡紀元前480年8月11日 (60歳前後)
テルモピュライ, ギリシャ
父親アナクサンドリデス (スパルタ王)
子女
プレイスタルコス
信仰古代ギリシャの多神教
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レオニダス1世(古希: Λεων?δα?、ラテン文字転記:Leonidas I、 ?-紀元前480年、在位:紀元前489年 - 紀元前480年)は、アギス朝のスパルタ王である。第二次ペルシャ戦役中のテルモピュライの戦いに300人のスパルタ兵士と共に参戦し、20万人以上と伝えられるペルシア軍にも互角以上に渡り合い、最期は壮絶な死を遂げた。その名声はギリシア中に轟き、スパルタ随一の英雄とされた。 レオニダス1世はアナクサンドリデスの息子であり、先王クレオメネス1世の異母弟である。レオニダスは三男であり、本来王位にはつきにくい身であったが、二人の兄であるクレオメネス1世とドリエウスの両方が相次いで早逝した。アナクサンドリデスは紀元前520年に亡くなり[1]、その後クレオメネスは紀元前516年までの間に王位を継いだ[2]。ドリエウスはスパルタ人が腹違いの兄を好み、自身がこれ以上スパルタに留まることができないと知ったため激怒した。彼はアフリカに植民地を設立しようと試みたが失敗した。その後シチリアに財を探し、当初は成功したが、殺害された[3]。この敵対的な腹違いの兄とレオニダスの関係は不明であるが、彼はクレオメネスの一人娘ゴルゴーと結婚して、王位を継いだ[4]。 ペルシア戦争を控えてデルポイに神託を聞いたところ「王が死ぬか、国が滅びるか」ということだった。そこでレオニダスは覚悟を決め、他の都市から来た兵士を帰し、わずかな軍でペルシアの大軍に立ち向かっていったのだとヘロドトスは記している。さらにこの時、スパルタではカルネイア祭、オリンピアではオリュンピア祭を開催する年であったことも重なり、十分な軍を送ることができず、レオニダスは親衛隊300人のみを率いて出陣した。紀元前480年のテルモピュライの戦いに赴く時、死を覚悟した彼は出陣の直前に妻に「よき夫と結婚し、よき子供を生め」と言い残したという。
生涯