この項目では、レフカダ島およびレフカダ市について説明しています。レフカダ市を含む県については「レフカダ県」をご覧ください。
レフカダ島
Λευκ?δα
レフカダ岬
地理
座標北緯38度43分 東経20度39分 / 北緯38.717度 東経20.650度 / 38.717; 20.650
レフカダ島 (ギリシア語: Λευκ?δα / Lefkada、ギリシア語発音: [le?f?kada])は、イオニア海(地中海の一部)に位置するギリシャ領の島。地理的・行政的なイオニア諸島地方に属する。最大の都市はレフカダ (Lefkada (city)) 。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの島の出身であり、「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られている。
目次
1 名称
2 地理
3 歴史
3.1 先史・古代
3.2 中世
3.3 近現代
4 行政区画
4.1 市(ディモス)
4.2 旧自治体(ディモティキ・エノティタ)
5 交通
5.1 道路
5.2 空港
5.3 港湾
6 文化・観光
6.1 神話・伝承の中のレフカダ島
6.2 観光
7 姉妹都市
8 人物
8.1 著名な出身者
9 脚注
10 外部リンク
名称 衛星画像
カサレヴサではレフカス島(Λευκ?? / Lefkas)と表記される。古名はレウカス島(古代ギリシア語: Λευκ?? / Leukas)。この地名は、ギリシャ語で「白」を意味する「レフコス」、あるいは「白い岩」を意味する「レフカタス」に由来する[1]。
中世にはアヤ・マウラ島(Αγ?α Μα?ρα)の名でも呼ばれた。この島は長らくヴェネツィア共和国とオスマン帝国の統治下にあり、イタリア人たちはサンタマウラ(イタリア語: Santa Maura)、トルコ人たちはアヤマウラ(トルコ語: Ayamavra)の名で呼んだ。 ギリシャ共和国西部、行政的なイオニア諸島地方(ペリフェリア)のほぼ中央部に所在する、イオニア諸島では4番目に大きな島である。 北西方向にやや離れてケルキラ(コルフ)島
地理
島の南端にはレフカタス岬がある。レフカダの街並み 海岸 アタニの集落(アポロニイ地区) 島には青銅器時代(紀元前3000年 - 紀元前1000年)の遺跡があり、遺物が発見されている[1]。 古代ローマの地理学者ストラボンによれば、アカルナニア (Acarnania
歴史「イオニア諸島」も参照
先史・古代
紀元前338年、マケドニア王国のピリッポス2世による支配下に置かれる[1]。その後、古代ローマの領域に入るが、紀元前2世紀にはローマに対する反乱も発生している[1]。 1204年、イピロス専制公国が第4回十字軍後の混乱の中で自立すると、レフカダ島もその領域に含まれた。1294年、ニケフォロス1世が娘のマリアをケファロニア宮廷伯ジョヴァンニ1世オルシーニと結婚させた際、レフカダ島は娘の所領として贈られた[1]。オルシーニ伯によって建設されたサンタマウラ要塞は、当時の島の中心地であった[1]。その後、島の領主はアンジュー家やトッツィ家に代わった。 1479年、オスマン帝国が島を占領する。1502年から03年にかけてヴェネツィア共和国が一時的に支配したが、1503年にオスマン帝国が奪回する。1684年、ヴェネツィア共和国が島を占領した。このとき、アマクシヒ(現在のレフカダ市街)に首府が移された[1]。 1797年、ナポレオン1世によってヴェネツィア共和国は終焉を迎え、レフカダ島を含むイオニア諸島はフランス領イオニア諸島となった。1799年にはロシア海軍が諸島を占領し、1800年にロシアとオスマン帝国が設立した共同保護国・七島連合共和国(イオニア七島連邦国)の一部となった。1807年のティルジット条約によってイオニア諸島はフランス帝国の支配下に戻されたが、1809年以降イギリスの攻勢にさらされた。レフカダ島は1810年、イギリスによって占領されている。1815年の第二次パリ条約によって、イギリスの保護国としてイオニア諸島合衆国(United States of the Ionian Islands, Ηνωμ?νον Κρ?το? των Ιον?ων Ν?σων)が樹立され、レフカダ島もその一部となった。 1864年6月2日にイオニア諸島はギリシャ王国に引き渡された。 レフカダ
中世
近現代
行政区画
Λευκ?δα
所在地
レフカダ
座標北緯38度43分 東経20度39分 / 北緯38.717度 東経20.650度 / 38.717; 20.650
域内の位置
行政
国: ギリシャ
地方:イオニア諸島
県:レフカダ県
ディモス:レフカダ
人口統計 (2001年)
ディモス
- 人口:21,414 人
- 面積:335.8 km2
- 人口密度:64 人/km2
その他
標準時:EET/EEST (UTC+2/3)