レイ・クロック
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レイ・クロック
Ray Kroc
レイ・クロック (1976年)
生誕Raymond Albert Kroc
(1902-10-05) 1902年10月5日
アメリカ合衆国 イリノイ州オークパーク
死没1984年1月14日(1984-01-14)(81歳)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンディエゴ
墓地カリフォルニア州ソレント・バレー(英語版)
エル・カミノ墓地(英語版)
国籍 アメリカ合衆国
職業実業家
活動期間1954?1984
著名な実績マクドナルドの実質的な創業者
純資産6億ドル (1984年)
政党共和党
配偶者エテル・フレミング
(m. 1922; div. 1961)
ジェーン・ドビンズ・グリーン
(m. 1963; div. 1968)
ジョアン・スミス (m. 1969)
子供1人
補足
[1][2][3]
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レイモンド・アルバート・クロック(Raymond Albert Kroc、1902年10月5日 - 1984年1月14日)は、アメリカ合衆国実業家である[4][5]ファストフード店のマクドナルド1961年に買収し、1967年から1973年までCEOを務めた。クロックのもとで、マクドナルドは世界規模に拡大し、世界で最も成功したファストフードチェーンとなった[6]。このことから、クロックはマクドナルドの「創業者」(ファウンダー)と呼ばれている。また、1974年から死去するまでは、メジャーリーグベースボールサンディエゴ・パドレスのオーナーを務めた。
若年期

クロックは1902年10月5日イリノイ州シカゴ近郊のオークパークで生まれた。父はアロイス・ルイス・クロック(Alois Louis Kroc、1879年 - 1937年)、母はローズ・マリー・ヒラク(Rose Mary Hrach、1881年 - 1959年)で、いずれもチェコ系ユダヤ人だった[7][8][9]。父アロイスはロキツァニ(英語版)近郊のブジャシ(英語版)で生まれた[10]。母ローズの父はシェヴィエティーン(英語版)出身、母方の祖父はミロティツェ(英語版)出身だった[11][12]。アロイスは渡米後の1920年代に土地の投機で財を成したが、1929年の株式大暴落で全財産を失った[13]

レイはオークパークで育った。第一次世界大戦中、15歳で高校を中退し、年齢を詐称してアメリカ赤十字社救急車運転手の訓練を受け衛生隊に所属した。同じ衛生隊には後のウォルト・ディズニー・カンパニー創業者となるウォルト・ディズニーもいた[14]。しかし、その後すぐに戦争が終わった。世界恐慌中には、紙コップのセールスマン、フロリダ州での不動産業、ジャズバンドでのピアノ奏者など、職を転々とした[15]
マクドナルド1955年4月にクロックが最初に開業させた、イリノイ州デスプレインズマクドナルドの店舗(マクドナルド9号店)

第二次世界大戦後、クロックは厨房機器メーカーのプリンス・キャッスル社に入社し、ミルクセーキミキサーのセールスマンとなった[16]。より低価格のハミルトン・ビーチ・ブランド(英語版)社の製品の登場により同社のマルチミキサーの売上げが落ち始めていた時に、カリフォルニア州サンバーナーディーノに新しいレストランを出店するマクドナルド兄弟が一度に8台のマルチミキサーを購入したことから、1954年にクロックは彼らの元を訪れた[17]

クロックはマクドナルド兄弟による効率化された調理システムに興味を持ち、兄弟と交渉してフランチャイズ権を獲得し、1955年4月にイリノイ州デスプレインズに最初のフランチャイズ店を出店した。この頃クロックは、かつて衛生隊で知り合ったウォルト・ディズニーに対し、ディズニーが計画中のテーマパーク(ディズニーランド)にマクドナルドの出店をできないかという伺いの手紙を出した。一説によると、ディズニーは通常10セントのポテトを15セントで売って、その差額をディズニー社に納めるという条件での出店を承諾したが、クロックがこの条件を拒絶したため、ディズニーランドへの出店ができなかったという。エリック・シュローサーは『ファストフードが世界を食いつくす』において、この話にはマクドナルド社のマーケティング担当役員による誇張が含まれているだろうとしている[18]

クロックは、外食産業のフランチャイズに数多くの革新的な変化をもたらした。その中でも重要なものは、それまでは地域単位で行われるのが普通だったフランチャイズ契約を、1店舗単位で行うようにしたことである。クロックは、フランチャイザーにとっては地域単位でフランチャイズ契約をした方が手早く利益を得られるが、それではフランチャイザーがチェーン展開の方向性を制御するのが難しくなると考えた。マクドナルド兄弟との契約では、全ての店舗で均一のサービスと品質を保つことが求められていたが、それを実現するためには、フランチャイザーがフランチャイジーに対して影響力を持っていなければならない。そこでクロックは、フランチャイジーは1契約につき1店舗の権利しか得られないようにしたのである[19]

クロックは、郊外にしか店舗を出店しないことにした。都市部では、営業時間外に貧しい住民が店舖内に侵入する可能性があるためである。クロックは、店内は常に清掃された状態にし、店員も常に身だしなみを整え清潔にし、子供に対しても丁寧に対応するよう求めた。提供する料理は厳格に決められており、そこから逸脱することは一切認められない。店内にタバコの自販機やピンボールゲームなどを置くことは禁止された[20]

1960年代には、バーガーキングバーガーシェフアービーズケンタッキーフライドチキン、ハーディーズ(英語版)など、マクドナルドのやり方を模倣したファストフードチェーンが次々に登場した。クロックは、多店舗展開を嫌うマクドナルド兄弟に対し不満を持つようになった。また、兄弟は「経営内容を変更する際には自分たちの許可を取ること」を契約の条件に入れていたが、クロックが変更の許可を求めても兄弟はそれを認めようとしなかった。1961年、クロックはマクドナルド兄弟から270万ドルで会社を買収した。この額は、税引後の受取額が200万ドル、1人あたり100万ドルとなるように計算したものである。買収のための資金は、クロックが「金融の魔術師」と呼んでいたハリー・J・ソネボーン(マクドナルド初代社長兼CEO)が調達した[21]

この契約の際、マクドナルド兄弟はサンバーナーディーノの最初の店舗の土地と権利だけはクロックに譲渡せず、クロックは不満に思っていた。「マクドナルド」という名称の権利も譲渡されたため、この店舗は「ビッグM」に改称した。クロックはビッグMのすぐ近くにマクドナルドの新しい店舗を出店させた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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