レイヴン_(バンド)
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レイヴン
RAVEN
ドイツ・ブランデ=ヘルナーキルヒェン公演 (2017年7月)
基本情報
出身地 イングランド
タインアンドウィア州ニューカッスル・アポン・タイン
ジャンルヘヴィメタル
スピードメタル
パワーメタル
スラッシュメタル
NWOBHM
活動期間1974年 - 現在
レーベルNeat Records
メガフォース・レコード
アトランティック・レコード
Combat Records
SPV/Steamhammer
マサカー・レコード
メタル・ブレイド・レコーズ
公式サイト ⇒ravenlunatics.com

メンバージョン・ギャラガー (Vo/B)
マーク・ギャラガー (G)
マイク・ヘラー (Ds)

旧メンバーロブ "ワッコ" ハンター (Ds)
ジョー・ハッセルヴァンダー (Ds)

レイヴン(RAVEN)は、イングランド出身のヘヴィメタルバンド

NWOBHM期から登場したグループの一つで、同郷の「ヴェノム」らと並ぶスピードメタルの先駆者として知られる。ジョンとマークのギャラガー兄弟が主宰を務め、デビュー以来 3人組を基本としている。
概要

基本的な音楽性はジョン・ギャラガーのロブ・ハルフォードばりのハイトーン・シャウトをフィーチャーした、非常にテンションの高いヘヴィメタルもしくはパワーメタルである。スピードにもこだわりを見せ後のスラッシュメタルバンド達にも影響を与えた。しかし時期によっては音楽性に迷いが生じたり、音楽性を変えさせられたことがあり、前述のようなスタイルの音楽性とは異なる作品もある。


彼らのファンは自他共に認めるほど熱狂的とされ、レイヴン・ルナティクス(狂信者)と呼ばれている。
経歴
オリジナル時代 (1974年 - 1987年)

1974年、ジョン・ギャラガー(vo,b)とマーク・ギャラガー(g,vo)の兄弟を中心に結成。初期はツイン・ギターで、ハードロックプログレッシブロックの両方をアプローチしていた。ギャラガー兄弟以外はメンバーが流動的であったが、ロブ "ワッコ" ハンター(ds)が加入してからトリオ編成に移行し、ラインナップが固まった。

ニート・レコードと契約して、NWOBHMムーヴメントの中1981年にアルバム『ロック・アンティル・ユー・ドロップ』でデビューした。2作目『ワイプド・アウト』は、1982年当時としては最も速くラウドなアルバムであったともいわれ(「速過ぎる」という批判すら一部にあった程であった)、スラッシュメタルの原点とも称された。

3rdアルバム『オール・フォー・ワン』(1983年)では、アクセプトのウド・ダークシュナイダーが共同プロデューサーとして参加し、同時期に発表されたシングル「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」(ステッペンウルフのカヴァー)では、ウドもヴォーカルで参加。同作に伴うツアーは、デビューアルバム『キル・エム・オール』をリリースしたばかりで当時まだ無名であったメタリカをオープニング・アクトに従えていた(そのためか、ツアータイトルは双方のアルバムタイトルから「KILL 'EM ALL FOR ONE」と命名された)。このツアーの最中に収録したライヴ版『ライヴ・アット・ジ・インフェルノ』(1984年)はバンドの評価を大きく上げることとなった。

アトランティック・レコードへの移籍第1弾アルバム『ステイ・ハード』(1985年)は、アメリカビルボード誌にチャート・インを果たした(最高81位)。が、アメリカでの兄貴分にあたるトゥイステッド・シスターの影響などもあり前作に比べポップ、グラム・メタル的な音楽性になってしまったとファンには不評で、次作『ザ・バック・イズ・パック』(1986年)もポップ・メタル路線をさらに推し進めてしまう。特にホーンの導入は大きな批判を浴びた。バンド側もメジャーレーベルの音楽性への干渉に相当ストレスを溜めており、レーベルの反対を押し切って発売されたミニ・アルバム『MAD』(1987年)で鬱憤を晴らすこととなる。そして同年、デビュー当時の音楽性に回帰した『ライフズ・ア・ビッチ』を発表。アトランティックを離れる。同時期にワッコが脱退。
メンバー交代以降(1987年 - 現在)

1987年、脱退したワッコの後任としてジョー・ハッセルヴァンダー(元ペンタグラム)が加入。コンバット・レーベルに移籍し前作よりもさらにパワフルな作品『ナッシング・エクセイズ・ライク・エクセズ』を発売。その後SPVに移籍し1991年に『アーキテクト・オブ・フィア』を発表するが、数曲を除きレイヴンらしい個性が薄まった作品との評価を受け、勢いを失ってしまう。その後、ベースの盗難やジョンの家の放火被害など様々な不幸な出来事が重なり、ほぼ解散一歩手前のような状態までに活動が停滞してしまう。親交のあった写真家の畔柳雪子(現・畔柳ユキ)の後押しもあり、日本のゼロ・コーポレーションと契約を結んだものの、バンド(特にジョン)のモチベーションは極めて低く、1994年には鬱病寸前のようなネガティヴな気持ちで曲作りがなされ、極めて陰鬱で疾走感のほとんど無い、まるでまったく別のバンドのような作品『グロウ』を発表してしまう。

しかし1995年に初の日本公演(オープニングアクトはスリーズ・ビーズ)が決まると、『グロウ』で見せた鬱病のような暗さとはうって変わったような元気で激しいライヴパフォーマンスを見せる。この日本公演は一回のみであったが、この様子を収録したライヴ・アルバム『デストロイ・オール・モンスターズ』を同年に発売している。そして1997年に持ち前のパワーと疾走感を取り戻した『エヴリシング・ラウダー』を出し、2000年にはかつての作品のタイトルをもじった『ワン・フォー・オール』を発表し健在ぶりを見せ付けた後、マークの骨折や契約問題などでアルバムのリリースは暫く途絶えた。


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