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プロフィール
リングネームオカダ・カズチカ
ドラゴンジョージ
オケイト
オカダ
岡田 かずちか
本名岡田 和睦
ニックネームレインメーカー
カネの雨を降らせる男
身長191cm
体重107kg
誕生日 (1987-11-08) 1987年11月8日(36歳)
出身地愛知県安城市
所属AEW
スポーツ歴陸上
野球
トレーナーウルティモ・ドラゴン
ネグロ・ナバーロ
近藤修司
獣神サンダー・ライガー
中邑真輔
山本小鉄
デビュー2004年8月29日
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オカダ・カズチカ(1987年11月8日 - )は、日本の男性プロレスラー。本名は岡田 和睦(おかだ かずちか)。愛知県安城市出身。血液型A型[1]。AEW所属。妻は声優・女優・歌手の三森すずこ[2]。 オカダは小学校5年生までは安城市に在住していたが、母の郷里である長崎県五島列島の自然に引かれ、そこに住みたいと自分で決めて1年半の間「山村留学」として同地に住み、安城市立安祥中学校入学[3]と同時に安城に戻った[4][5]。中学時代は野球に打ち込み、陸上では短距離100メートル走で愛知県大会8位を記録する。中学時代の100m自己ベストタイムは11秒68。野球では目立った実績を残していないが、俊足だったため高校の陸上部からスカウトが来たことがある[4]。 プロレスの存在は中学時代に5つ上の兄が友達から借りてきたプロレスのゲームソフト『新日本プロレス 闘魂炎導 BRAVE SPIRITS』によって知り、これがきっかけで新日本プロレスを録画して見るようになった[4]。しかし新日本の試合を見ていた時期は短く、新日本がいわゆる暗黒期と呼ばれる時代に入っていたことから「プロレスを好きになって最初は見ていたんですけど、新日本がつまらなくなったんです。格闘技路線に走ったから。それで見なくなりました」と魅力を感じなくなった[4]。オカダの心を掴んだ存在としては他に闘龍門があり、後年の文献では「たまたま家がケーブルテレビに入っていて、それで闘龍門を見たんです。闘龍門には新日本と違っていろんな色の人がいて。赤い人もいれば、緑もいて。黄色だオレンジだって、カラフルで目を惹きましたね」と本人が当時を述懐している[4]。闘龍門を見てプロレスの華の部分にひかれたオカダは以降、プロレスファンよりも闘龍門ファンになり、地元の近くで興業があれば観戦にも出かける熱の入れようであった。 15歳でウルティモ・ドラゴンのプロレススクール「闘龍門」の13期生として入門[6]。闘龍門への入学に際して親は最初は高校入学を望んで反対したが、山村留学の例から明らかなように自分で決めたら他者の意見を聞かないオカダの性格を熟知していた親は結局折れてプロレス入りを認めた[4]。 オカダが入門したばかりの頃の闘龍門は練習生が多く飽和状態になっていたため、当時コーチを務めていたミラノコレクションA.T.の証言によると何人か辞めさせるために過度に厳しい練習メニューを課していた。基礎体力が他の練習生に比べて劣っていたオカダは、過酷な練習メニューが与えられた。ハードな練習が終わっても新弟子はハードな雑用が待っており、寮でのオカダは睡眠時間以外、心身共に休まらない暮らしを強いられた。何度も周囲から「やめるか?」と聞かれても、オカダは自身は中卒なので他に行く所がないと考えていたため「やめないです!」と意地になっていた[4]。 2004年8月29日、メキシコ・アレナコリセオにおけるネグロ・ナバーロ戦でデビュー[6]。2005年12月のヤングドラゴン杯を制覇する[6]。デビュー後のオカダはウルティモ・ドラゴンからの指名でメキシコ、日本、アメリカ、カナダなどで試合を経験。ドラゴンからスターとしての資質を見抜かれていたオカダは付き人ではなかったが何かとドラゴンに帯同することが多く、若手のうちから様々な経験を積んだ[4]。 2007年5月13日、闘龍門MEXICO『ウルティモ・ドラゴン20周年記念&闘龍門メキシコ10周年記念自主興行 DRAGOMANIA II』アレナ・メヒコ大会に大抜擢され、その時、師匠のウルティモ、ミル・マスカラスと言った大物とタッグを組んだ。日本から来た鈴木みのる、高山善廣と対戦。7月22日、「ウルティモ・ドラゴン20周年記念興行」に参戦し、獣神サンダー・ライガー、ミラノコレクションA.T.と組みTAJIRI、折原昌夫、大原はじめ組と対戦。試合に敗れた後、新日本プロレスに入団することを発表した[6]。「自分はやることがなくなっちゃうと変わりたくなるんですよね。高校に行かなかったのも、高校で特にやることが見つからなかったんで、じゃあ、プロレスに入っちゃえって。それでメキシコでやってるうちに、だんだんメキシコでやることもなくなってきて。じゃあ、新日本に行かせてもらえないかなって気持ちが出てきたんです」と後に答えている[4]。
来歴
デビュー前 - 闘龍門時代