レイヨナン式(レヨナン式、仏: Rayonnant、フランス語発音: [??j?n??])は、13世紀中期から14世紀中期のフランスにおける、ゴシック建築の様式のひとつである[1][2]。レイヨナン(Rayonnant)の名称は、アンリ・フォションをはじめとする、窓のトレーサリーの形態からゴシック建築を分類しようとした19世紀フランスの美術史家によって名付けられたものであり、この様式のバラ窓の装飾が輻のように放射状に広がっていることに由来する。イングランドにおいては、装飾様式(英: Decorated style)と呼称されることもある[1][2]。
この様式は、建築の大規模性を追求する盛期ゴシック(英語版)から離れ、空間のまとまり、装飾の洗練性を重視したほか、窓の面積を増やすことで空間に光を取り込もうとしたことを特徴とする[3]。また、この様式の目立つ特色として、巨大なバラ窓、上層部クリアストーリーの窓の増加、翼廊の重要性の削減、身廊と側廊の連絡を充実させるための地上階の開口部の大型化がある[3]。内部装飾は増加し、装飾モチーフは巨大なスケールと空間的な合理性を用いた、ファサードや控え壁といった外部に広がり、平面とは異なるスケールでの装飾モチーフの繰り返しに対する、より大きな関心に向かった。トレーサリー(英語版)はステンドグラス窓から石造部、そして破風などの建築的な特徴へと徐々に広がっていった[1][2]。
フランスにおいてはアミアン大聖堂(1220年?1270年)が初期の代表例である。もっとも著名で完成された例は、ノートルダム大聖堂の一部再建(1250年代)であり、巨大なバラ窓が増築されている[1][2]。後期レイヨナン式のもっとも優れた例は、パリの宮廷礼拝堂であるサント・シャペルで、上部の層はステンドグラスによる大きな籠のようになっている[1][2]。
この様式はフランスからイングランドにもすぐ広まり、トレーサリーの装飾はコロネット(英語版)やリブヴォールトなど、より伝統的なイギリスの装飾に取り入れられることもあった[1][2]。イングランドにおけるレイヨナン式の特筆すべき例としては、リンカン大聖堂やエクセター大聖堂の天使のクワイヤ(1280年以前建造)が挙げられる。また、ウェルズ大聖堂(英語版)の印象的なレトロクワイア(英語版)、ブリストル大聖堂(英語版)の聖アウグスティヌスのクワイヤ、ウェストミンスター寺院もその他の重要な例である。
14世紀中期以降、レイヨナン式は次第に華麗で装飾性の高いフランボワイヤン式(英語版) に取って代わられることになる。 レイヨナン式の起源は、1226年から1270年まで在位したルイ9世の時代にさかのぼることができる。当時のフランスはヨーロッパでもっとも裕福で力のある国家であった。ルイ9世は敬神の念があつく、カトリック教会およびカトリック芸術の有力な支援者だった。神学教育機関として、ソルボンヌことパリ大学が設立されたのも彼の治世下である。主要なレイヨナン式の聖堂は彼の支援を受けており、彼が所蔵する膨大な聖遺物を保管するためつくられた、宮廷礼拝堂であるサント・シャペルは、レイヨナン式ゴシック建築の傑作のひとつとみなされている[4]。ルイ9世は、イングランドのゴシック建築にも重要な影響をのこしている。彼の義理の兄弟である、イングランド王ヘンリー3世はパリを訪問し、1245年にウェストミンスター寺院を新しい様式で修築している。また、彼はサント・シャペルの献堂に参列し、1258年にセント・ポール大聖堂の東端をこれに似せて改築している[1]。 最初にレイヨナン式で建造された大聖堂は、アミアン大聖堂(1220年?1270年)である。建造の指揮をとったのはアミアン司教のフイヨワのエヴラール
フランスにおけるレイヨナン式
アミアン大聖堂
アミアン大聖堂の、レイヨナン式教会としてのもっとも印象的な特徴は、大アーケードの18mという途方もない高さである。これは、上層のトリフォリウムとクリアストーリーの合計の高さに匹敵する。高窓もレイヨナン式の新しい配置のしかたがなされている。身廊には4枚1組のランセット窓(英語版)の上にバラ窓3枚、トランセプトにはランセット窓8枚を設けることにより、おびただしい光を取り込んでいる[5]。1992年に実施されたティンパヌムの詳細な研究では塗料の痕跡が発見され、全体が鮮やかな色で彩色されていたことがわかった。現在は、特別な日にはライティングによって往時の姿が再現される。 アミアン大聖堂が着工されてからまもなく、ゴシック様式の嚆矢として知られるパリのサン=ドニ大聖堂もレイヨナン式に修築された。1231年に身廊とトランセプトの修築がはじまり、内部空間がひろく解放された(ただし、シュジェールによって建設された当初のゴシック様式の特徴のいくつかは見違えるほど変化している)。壁面には大きな窓が設けられ、主なアーケードからヴォールトの頂点に至るまで、上層部が開放された。暗かったアプスは光で満たされた[1]。 パリのノートルダム大聖堂も、新しい様式にあわせて大修築された。1220年から1230年にかけて、古い控え壁がフライング・バットレスに取り替えられ、上層部の壁を支えた。ひとつの高さが6mの窓37枚が新しく設けられ、それぞれにバラ窓をのせた二重アーチ窓が付随した(現在は身廊に12枚、クワイヤに13枚の計25枚が残る)[6]。 ノートルダム大聖堂の最初のバラ窓は、1220年代に西側ファサードに設けられた。中世において、バラはこの聖堂の献堂先である処女マリアの象徴であった[6]。西側の窓は小さく、太い石の輻がついていた。トランセプトに設けられた比較的大きな窓は1250年(北側)と1260年(南側)に設けられた。これらの窓はより凝った装飾が施されており、ガラスを隔てる中枠も細かった。北側の窓は旧約聖書の物語、南側の窓はキリストの教えと新約聖書に特化している[6]。
トランセプトと北側ステンドグラス
北側トランセプトのバラ窓
色付きライトで照らされ、ティンパヌムの往時の姿が再現される様子
サン=ドニ大聖堂とパリのノートルダム大聖堂
サン=ドニ大聖堂(1230年代)のレイヨナン式の窓
サン=ドニ大聖堂のレイヨナン式のバラ窓
ノートルダム大聖堂(1260年)の南側トランセプトのバラ窓
ノートルダム大聖堂トランセプトのバラ窓と高窓
ル・マン大聖堂とトゥール大聖堂