レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ
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レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ
Ralph Vaughan Williams
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの肖像画(1919年)、ウイリアム・ローゼンシュタイン (英語版) 作
基本情報
生誕1872年10月12日
出身地 イングランド、ダウンアンプニー
死没 (1958-08-26) 1958年8月26日(85歳没)
イングランドロンドン
職業作曲家
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レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams OM, 1872年10月12日-1958年8月26日) は、イギリス作曲家。Vaughan Williams が姓であり、RVW または VW と略される。Ralph は通常「ラルフ」と読むが、本人が古風な発音の「レイフ」にこだわったという経緯から「レイフ」が用いられる。民謡の採集や教会音楽の研究を通して独特の作風を確立し、イギリス人による音楽の復興の礎を築いた。
年譜

1872年10月12日にグロスターシャー州ダウンアンプニーに生まれる。父は牧師であったが、RVWが3歳の時に他界。

6歳頃から叔母に音楽を学ぶ。7歳からヴァイオリンを習う。

1890年 王立音楽大学に入学。

1892年 王立音楽大学を休学し、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学して音楽と歴史を専攻[1]

1894年 ケンブリッジ大学で学士(音楽)を取得[1]

1895年 ケンブリッジ大学で学士(文学)を取得[1]

1897年 アデリーン・フィッシャーと結婚。翌年よりロンドンに居を構える。

1907年 評論家ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシから作曲家モーリス・ラヴェルを紹介され、作曲とオーケストレーションのレッスンを受ける。

1910年タリスの主題による幻想曲」、「海の交響曲」(交響曲第1番)初演。

1919年 王立音楽大学の作曲科教授に就任。

1934年 親友の作曲家グスターヴ・ホルストが死去。

1935年 メリット勲章を受章。

1951年 妻のアデリーンが死去。

1953年 アーシュラ・ウッドと再婚。

1958年 交響曲第9番初演。8月26日にロンドンにて心臓発作のため死去。85歳没。

生涯
初期

ヴォーン・ウィリアムズは1872年10月12日、グロスタシャーのダウン・アンプニー(英語版)に生まれた。父のアーサー・ヴォーン・ウィリアムズ(Arthur- 1834年-1875年)は、この地で聖公会の教区主管者代理者を務めていた。ヴォーン・ウィリアムズ姓は、ウェールズに起源を持つハイフン無しの二重姓(英語版)である。父が1875年に死去すると、ヴォーン・ウィリアムズは母のマーガレット・スーザン(Margaret Susan 旧姓ウェッジウッド Wedgewood 1842年-1937年)に連れられてサリーへ向かった。母の曾祖父は陶器職人のジョサイア・ウェッジウッドであり、ウェッジウッド家(英語版)の実家で暮らすために、サリーの景勝地にあるレイス・ヒル・プレイス(Leith Hill Place)に引っ越したのである。このことからも分かる通り、ヴォーン・ウィリアムズはジョサイア・ウェッジウッドの玄孫にあたる。また、ダーウィン家も親戚であり、チャールズ・ダーウィンは彼の大おじである。知的な上位中産の特権階級に生まれながらもヴォーン・ウィリアムズはそれに甘んじることなく、生涯を通して自らの信念であった民主、平等主義の理想のために活動した[2]ダーウィン=ウェッジウッド=ガルトン家の家系図。ヴォーン・ウィリアムズとダーウィンウェッジウッドとの関係が記されている。

6歳の時、ヴォーン・ウィリアムズはおばのソフィ・ウェッジウッド(Sophy-)からピアノ作曲の手ほどきを受けるようになった。7歳になるとヴァイオリンの演奏を開始している。彼が14歳の1887年1月、音楽表現を奨励していた当時にあっては数少ない学校のひとつであるチャーターハウス校に通った[3]。チャーターハウスを出ると、次は王立音楽大学においてスタンフォードの薫陶を受けている。彼はケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで歴史学と音楽を専攻し[4]、大学時代の同年代としては哲学者ジョージ・エドワード・ムーアバートランド・ラッセルを挙げることができる。王立音楽大学に戻ったヴォーン・ウィリアムズはパリーの下で作曲を学び、彼とは親交を築いた。王立音楽大学時代の仲間には、1896年に共にウォルター・パラットからオルガンを学んだレオポルド・ストコフスキーがいる。ストコフスキーは後にヴォーン・ウィリアムズの6つの交響曲を演奏してアメリカの聴衆へ紹介し、1949年にはニューヨーク・フィルハーモニックと彼の「交響曲第6番」の初録音を実施、また1958年カーネギー・ホールにおいて「交響曲第9番」のアメリカ初演を行っている。1898年のヴォーン・ウィリアムズ

王立音楽大学時代にヴォーン・ウィリアムズが作曲家となるにあたって重要な影響を与えた友人として、1895年に知り合った学生仲間のホルストがいる。この時以降、2人は互いが作曲中の作品を読みあって建設的な批評を行う「演習日」を幾度か共に過ごした[5]

ヴォーン・ウィリアムズは作曲家として遅咲きであり、最初の出版作品である歌曲「Linden Lea」が世に出た時には彼は30歳になっていた。彼は作曲の他に指揮や講義を持つなどの活動も行っていた。また、音楽の収集、編纂も行っており、パーセルの作品や英国の讃美歌での業績は名高い。既に1897年ベルリンにてブルッフの指導を受けていた彼であったが、1907年から1908年にかけての間にパリで3か月間ラヴェルに師事したことで、彼の管弦楽の扱いは長足の進歩を遂げた[6]

1904年、ヴォーン・ウィリアムズはイングランドの各地方に根付いていた民謡キャロルが、地方での識字率向上や印刷楽譜の普及に伴って口頭伝承の影が薄くなっているために、急速に失われつつあることを見出した。彼は自ら田舎を訪ねて歩き、その多くを編曲して保存した。後年、彼はそういった音楽の美しさや普通の人々の日常の中で培われた名もない歴史に魅了され、自作の楽曲に歌曲や旋律の一部を取り入れている。彼の功績により、イングランドの伝統的な民謡や旋律はより高い評価を受けることになった。彼は後に英国民族舞踊民謡協会の会長を務めており、協会はこの分野における彼の早くからの重要な業績を称えて、彼の名を冠したヴォーン・ウィリアムズ記念図書館を有している。

1905年、ヴォーン・ウィリアムズはドーキング(英語版)で新たに開催されることになった、レイス・ヒル音楽祭の第1回演奏会を指揮した。彼は1953年までここでの指揮者を務め、ウィリアム・コールに指揮棒を託した[7]

1909年、ヴォーン・ウィリアムズはケンブリッジ大学でアリストパネスの喜劇「」が上演されるのに合わせて、劇の付随音楽を作曲した。翌年、「トマス・タリスの主題による幻想曲[注 1]合唱交響曲である「海の交響曲」(交響曲第1番)の初演を指揮した彼は、自身にとって初めてとなる大きな成功を収めた。さらに1914年ジェフリー・トイの指揮で「ロンドン交響曲」(交響曲第2番)が披露されると、彼はさらに大きな成功を手にすることになった。
2つの世界大戦ドーキングにあるレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの像

第一次世界大戦開戦時、ヴォーン・ウィリアムズは41歳になっていた。彼は兵役を完全に逃れることができたものの、自ら軍部に志願して王立陸軍医療軍団(英語版)に義勇兵として入隊した。フランスおよびマケドニア前線(英語版)において担架卒として悲惨な日々を過ごした後[8]、彼は1917年12月24日に王立砲兵守備隊[注 2]少尉に任命される[9]。彼は、ある時には耐えがたい病に苦しみつつ、地を這いながらも任された砲台の指揮を執った[10]。砲火の爆音に長期にわたって晒されたことが、彼が老いると深刻になっていった難聴のきっかけとなった[2]1918年、陸軍の音楽監督に任ぜられたことにより、彼は音楽活動を再開できるようになった。

戦後、しばらくの間ヴォーン・ウィリアムズが取り組んでいたのは、ヴィオラ独奏と小規模のオーケストラ、歌詞のない合唱のための幾分神秘的な「野の花」である。もう1曲は「田園交響曲」(交響曲第3番)で、この曲の第2楽章で聴かれるトランペットカデンツァは、彼が義勇兵として衛生隊にいた頃にラッパ手が間違って7度の音程を繰り返し吹いていたのを聴いた記憶を元に、交響曲にそれとなく引用したものである。曲は1922年1月26日にロンドンでエイドリアン・ボールトの指揮の下、初演された。1924年からは彼の音楽は新たな段階に入り、生き生きとしたクロスリズム(英語版)と鋭い和声が特徴となる。この時期を彩るのは「行進曲風トッカータ」、バレエ「老いたコール王」、「ピアノ協奏曲」、オラトリオ聖なる市民」(自作の合唱作品の中でも作曲者のお気に入りだった)、そしてバレエ「ヨブ:舞踏のための仮面劇」である。これは聖書ヨブ記に依るのではなくウィリアム・ブレイクのヨブ記への挿絵[注 3]が元になったものである。


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