レイジー
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この項目では、ロックバンドについて説明しています。その他の用法については「レイジー (曖昧さ回避)」をご覧ください。

レイジー
LAZY
出身地 日本大阪府
ジャンルロック
ハードロック
ヘヴィメタル
グラムロック
活動期間1973年 - 1981年
1998年 -
レーベルRVC1977年 - 1981年
エアーズ1998年 - 1999年
Lantis2000年 - )
共同作業者藤田浩一
伊集院静
奥田民生
斉藤和義
JAM Project

メンバー影山ヒロノブボーカル
高崎晃ギター
井上俊次キーボード
田中宏幸ベース
樋口宗孝ドラムス
吉田拓郎
泉谷しげる
ディープ・パープル
クリーム
など

レイジー(LAZY)は、日本ロックバンド
メンバー

メイン・ヴォーカリストは影山ヒロノブだが、他のメンバーも何らかの曲でリードヴォーカルを担当している。

影山ヒロノブヴォーカル
ニックネームはMichell(ミッシェル)。RVC在籍時は本名の景山浩宣名義で活動していた。再結成後は曲によってはアコースティック・ギターも担当。

高崎晃ギター
ニックネームはSuzy(スージー)。

井上俊次キーボード
ニックネームはPocky(ポッキー)。

田中宏幸ベース
ニックネームはFunny(ファニー)。2006年9月1日、急性心不全のため死去。

樋口宗孝ドラムス
ニックネームはDavy(デイビー)。2008年11月30日肝細胞癌のため死去。

田中、樋口とも死去しているが、以降作成された楽曲に生前に録音した各々の演奏の音源が使用されることがある。
活動
結成?初のヒット

1973年、小学校からの同級生である景山・高崎・田中がバンドを結成。(結成当初、景山はサイド・ギタリストでドラマー兼ヴォーカリストは後に44MAGNUMを結成する伊賀照幸)それぞれ別の高校に進学後、景山が井上を、高崎が2年先輩(既に文化祭を始め、何度か競演を重ねる仲)の樋口を誘いバンドに加入。ディープ・パープルの楽曲の名前をとって、バンド名を「レイジー」とする。

初期は吉田拓郎泉谷しげるのカバーを行っており、演奏技術の向上とともにハードロックのカバーを行うようになった。

1977年2月、朝日放送の『ハロー・ヤング』に出演、ディープ・パープルの「BURN」を演奏。これがかまやつひろしに認められ、デビューの誘いを受ける。同年6月、デビューのため上京。同年7月、RVC(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)のRCAレーベルよりデビュー。本来はハードロック志向のバンドだったにもかかわらず、制作サイドの意向によりベイ・シティ・ローラーズのようなイメージを要求されることになり(景山によると「上京してすぐに美容室に連れて行かれ、髪を切られた」とのこと)、ニックネームとお揃いのコスチュームを与えられた。かまやつはポール・ロジャースにデビュー曲を書かせるという約束をしていたのだが実現せず、実際のデビュー曲『Hey! I Love You!』は森雪之丞(作詞)、馬飼野康二(作曲)のコンビによるものとなった。以降、音楽プロダクションとしてはトライアングル・プロダクションに所属するが、プロデューサーはその後角松敏生オメガトライブ等を手掛ける元アウト・キャスト藤田浩一と元ザ・タイガース森本太郎が務め、ディレクターは元パープル・シャドウズの岡村右が務めるなどグループ・サウンズ系の人物が深く関わっていた。この方針はメンバーを困惑させることになった。しかし、「売れれば好きなハードロックができる」との説得を受け、これに応じることになる。後に景山は「生き残るということを考えれば(アイドル路線は)妥当なものだったと今なら思えるが、当時はショックの方が大きかった」と、高崎は「ロックは弾けてもポップは弾けないと分かったので、将来のことを考えて音楽性を広げるために真面目に練習したが、ストレスは溜まった」と語っている。

1978年、3枚目のシングル赤頭巾ちゃん御用心』がオリコン32位にランクインし、レイジーの名を一躍有名にする。しかし、自分たちが望まない路線でのヒットはメンバーの苦悩をさらに強くするものであった。
音楽性の追求

シングルではポップなアイドル路線を歩む彼等だったが、ステージではロックナンバーも演奏する等、自分達の原点であるロックへのこだわりを見せていた。特に高崎のギタープレイは同世代のギタリストからも注目され、1979年には遠藤賢司が会長となって「レイジー男だけのファンクラブ」が結成された。デビュー曲を作詞した森雪之丞も参加している。その後、シングルでもアルバムでもハードロック調の楽曲を発表していき、4thアルバム『Rock Diamond』では全10曲中8曲をメンバー自身が作曲している。

しかし、その一方で依然としてアイドル路線の曲の発表も続いており、彼等は「やりたい音楽」と「求められる音楽」のギャップを感じ続けていた。
ヘヴィー・メタル宣言?解散

この頃新たに事務所の紹介でプロデューサーとなった伊集院静からの提案を受けて[1]1980年7月から始まったツアー『DOMESTIC TOUR IN SUMMER』で「ヘヴィー・メタル宣言」が行われた。これは彼等が「本当にやりたい音楽」をやるための、宣戦布告とも呼べるものだった。ただしその代償として、事務所から樋口が解雇されかけるなどの問題も発生し、しまいには「レコーディングにスタッフが誰も来なくなった」ほどに事務所から見放された[1]。その後、シングル『感じてナイト』を経て発売されたアルバム『宇宙船地球号』はハードロック調の曲で統一され、それまでのアイドルバンドとしての彼等のイメージを根底から覆した。

本来ハードロック志向だった彼等にとっての原点回帰となったのが『宇宙船地球号』であり、これが本当のスタートになるかと思われたが、より本格的なヘヴィメタルを追求したかった高崎と田中と樋口、ハードロックより過激なヘヴィメタルという新しい音楽性に付いて行けなくなった影山と井上とのメンバー間の音楽性の違いが浮き彫りになっていった[2][3]。そのため、景山の20歳の誕生日である1981年2月18日調布グリーンホールで行われたライブで解散宣言が行われ(その模様はライブ・アルバム『燃えつきた青春』に収録されている)、同年5月31日、正式に解散した。
解散後

高崎と樋口は、ヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」を結成(初期は田中も参加していたが正式なデビューの前に脱退)、1981年11月に『THE BIRTHDAY EVE ?誕生前夜?』でデビュー。1985年には『THUNDER IN THE EAST』で世界進出を果たし、ビルボード総合チャートで74位を記録した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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