オレゴン州レイク郡
郡のオレゴン州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1874年10月24日
郡庁所在地レイクビュー
面積
- 総面積
- 陸
- 水
21,647 km2 (8,358 mi2)
21,072 km2 (8,136 mi2)
人口
- (2010年
レイク郡(英: Lake County)は、アメリカ合衆国オレゴン州の郡の一つで、州中南部の高原砂漠地帯に位置する。郡名は、この地域にアバート湖、ハートレイク貯水池、グース湖など多くの湖が存在することに由来する[1]。オレゴン州内で面積最大の郡であるが、人口密度はかなり低く、2010年国勢調査時点の郡の人口は7,895人だった[2]。郡庁所在地はレイクビュー市である[3]。
「オレゴンの奥地」(Oregon's Outback)とも言われるグレートベースン南西端の高原砂漠地域に位置する。レイクビューやペイズリーを中心とする南部地域と、クリスマスバレー地域、フォートロック地域、シルバーレイク地域を中心とする北部地域の2つに分けて考えられることが多い。
郡の経済は、農業と自然資源の管理・採集に大きく依存している。牛の放牧、乾草の農場、木材の保有も盛んである。20世紀初めには開拓やホームステッド法による入植も盛んに行われた。製材業はかつてレイク郡の主要産業だったが、現在ではレイクビューに工場が1基残っているのみである。 クローヴィス文化時代の糞石が2007年に郡北部のペイズリー洞窟で発見され、放射性炭素年代測定により14,300年前の物であることが確認された。この糞石からDNAの抽出・解析が行われた結果、アメリカ先住民のみに見られる遺伝子マーカーが認められた[4]。ルーサー・クレスマンは1938年に郡北部のフォートロック洞窟 ヨーロッパの商人や探検家、軍隊などがこの地に到着したのは19世紀の初めだった。ピーター・スキーン・オグデン率いるハドソン湾会社の罠猟隊が、1827年にグース湖に到着した。1832年にはジョン・ワーク率いるハドソン湾会社の罠猟隊がグース湖渓谷に宿営していたことが判明しており、同会社の会報にハンターズ・ホットスプリングスについての言及がある。ワーク探検隊はワーナー湖やアバート湖にも訪れ、チャンドラー公園の中にあるクルークト川のほとりにキャンプを設営した。記録によれば彼らは、現在もオレゴンに生育する野生のプラムを食べたとされる。また、現地のインディアンに襲われたとも記録にある[7]。1838年、エンジニアでもあったJ・J・アバート大佐は、ハドソン湾会社の罠猟隊から集めた情報を基に、ワーナー湖などの自然地理を記述した地図を作成した。1843年、ジョン・C・フレモント隊はクリスマス湖に到達している[7]。 レイク郡にはかつてバスク人[8]やアイルランド人[9]が多く住み、牧羊を営んでいた。しかし、牧牛家と牧羊家の間で放牧権を巡って論争が起こり、小麦栽培が導入されると抗争は激化した。20世紀初頭、覆面を被りライフルを持った牧牛家の一隊がレイク郡北部とデシューツ郡で羊の殺戮を行い、彼らは「羊撃ち」と呼ばれるようになった。オレゴン歴史プロジェクトに拠ると、1904年4月には一夜にして2,300匹の羊がレイク郡で殺された[10]。 入植者の到着に伴いレイク郡は成長したが、乾燥した気候で開発に人々は難儀した。 1874年10月、州議会の法令によりワスコ郡とジャクソン郡から分割する形でレイク郡が発足した。当時のレイク郡は、今日クラマス郡となる地域の全域および、現在のレイク郡からワーナー渓谷を除く全域を含む地域から成っていた。1882年、クラマス郡が分郡。1885年にはワーナー渓谷の地域一帯がグラント郡から割譲されてレイク郡の一部となった。リンクビル(現在のクラマスフォールズ)に最初の郡庁が置かれた[11]。 レイクビューの町の建設予定地として、M・ブラードから20エーカー(80,000 m2)の土地が贈られた。町が発展した後、1875年の住民投票により郡庁がレイクビューに移された。当時はまだオレゴン州各地への輸送機関が発達しておらず、レイク郡の経済はもっぱらカリフォルニア州の方を向いていた。それを示すように、レイク郡で毎日配達されていた新聞はカリフォルニア州発のサンフランシスコ・クロニクル紙やサンフランシスコ・エグザミナー紙であり、オレゴン州が誇るオレゴニアン紙が読まれるようになるのはその後であった。1840年代から1850年代にかけて、コロンビア川沿いのザ・ダルズとサンフランシスコのプレシディオを結ぶ飛脚用の道路が郡内を通っていた。
歴史
先コロンビア期
近代以降