レアル・マドリード・カスティージャ
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レアル・マドリード・カスティージャ
原語表記Real Madrid Castilla Club de Futbol
愛称Castilla (カスティージャ)
クラブカラー.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  白
創設年
1930年
所属リーグプリメーラ・ディビシオンRFEF
ホームタウン3部
ホームスタジアム
アルフレッド・ディ・ステファノ
収容人数6,000人
代表者 フロレンティーノ・ペレス
監督 ラウル・ゴンサレス
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーAwayカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

レアル・マドリード・カスティージャ(Real Madrid Castilla Club de Futbol)とは、レアル・マドリードリザーブチームである。2022-23シーズンはプリメーラ・ディビシオンRFEFに所属している。

レアル・マドリードの予備チームであり、レアル・マドリードの下部組織(カンテラ)の選手達が所属している。

スペインの予備チームは、個別のリーグではなく、上級チームと同じリーグシステムでプレーしている。ただし、予備チームは上級チームと同じディビジョンでプレーすることはできない。したがって、レアル・マドリード・カスティージャはプリメーラ・ディビシオンへの昇格の対象外である。

リザーブチームは、コパ・デル・レイへの参加ができない。さらに、23歳未満のプレーヤー、またはプロの契約を結んでいる25歳未満のプレーヤーのみが、上級チームと予備チームを切り替えることができる。
クラブの歴史
ADプルス・ウルトラ

レアル・マドリード・カスティージャの歴史は、1948年にアグルパシオン・デポルティーバ・プルス・ウルトラ, AD プルス・ウルトラ(Agrupacion Deportiva Plus Ultra, AD Plus Ultra)というテルセーラ・ディビシオン所属の地元アマチュアチームが、レアル・マドリードの選手育成について合意したことから始まった。チームは元々1930年に創設され、チーム名をスペインの国家標語からとった。レアル・マドリードはADプルス・ウルトラに対し経済援助を行い、見返りにチームに在籍している最高の選手たちの第一先買権を得た。チームは1949年にセグンダ・ディビシオンに昇格し、1952年に正式にレアル・マドリードのBチームとなった。1954年、ADプルス・ウルトラはスペインU-19カップ決勝でエスパニョールを破り優勝。1959年にはコパ・デル・レイ準々決勝でグラナダCFに敗戦した。

1950年代、1960年代には、サラガマテオス、マルサル、カサード、ビジャ、ビダル、セレーナグロッソなどの未来のレアル・マドリードの選手たち、スペイン代表選手たちがADプルス・ウルトラでプレーしていた。またルイス・アラゴネスも短期間ながら在籍し、ミゲル・ムニョスはこのチームで監督のキャリアをスタートさせた。1972年、ADプルス・ウルトラと同名の保険会社が破産したため、チームはカスティージャCF(Castilla CF)と名称を変え、新しくレアル・マドリードのBチームとなった。
カスティージャCF

名称がカスティージャCFとなってから、チームは黄金時代を迎えることとなった。この時代、チームにはアグスティンガジェゴ、ピネダが在籍し、1979-1980シーズンのコパ・デル・レイの決勝に進出した。カスティージャCFはトーナメントで、エルクレスCFアスレティック・ビルバオレアル・ソシエダスポルティング・デ・ヒホンという四つのプリメーラ・ディビシオン所属チームを破る快進撃を見せた。ちなみにソシエダとスポルティングはこのシーズンにプリメーラでそれぞれ2位と3位になっている。決勝ではカスティージャCFのトップチームであるレアル・マドリードと対戦し、6-1と大敗、準優勝に終わった。しかしレアル・マドリードがリーガで優勝したため、カスティージャCFはUEFAカップウィナーズカップの出場権を得る。翌シーズンのカップウィナーズカップ1回戦ではウェストハムと対戦。サンティアゴ・ベルナベウで行われた1st legは3-1で勝ったものの、2nd legでは5-1で敗戦し、トーナメントから姿を消した。カスティージャCFは1984年、1986年、1988年のコパ・デル・レイで準々決勝に進出した。

1984年、アマンシオ・アマロ監督の下、カスティージャCFはセグンダ・ディビシオン優勝を果たした。チームでは「キンタ・デル・ブイトレ(La Quinta del Buitre)」のメンバーたち、エミリオ・ブトラゲーニョマヌエル・サンチスマルティン・バスケスミチェルミゲル・パルデサがプレーしていた。


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