レアル・ベティス
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レアル・ベティス
原語表記Real Betis Balompie,
S.A.D.
愛称Los Beticos
Los Verdiblancos
El Glorioso
クラブカラー   
   
創設年1907年
所属リーグラ・リーガ
所属ディビジョン1部(2023?24
昨季リーグ順位6位(2022?23
ホームタウンアンダルシア州セビリア
ホームスタジアム
ベニート・ビジャマリン
収容人数60,720
代表者 アンヘル・アロ
監督 マヌエル・ペレグリーニ
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

レアル・ベティス・バロンピエ(スペイン語: Real Betis Balompie)は、アンダルシア州セビリアに本拠地を置くスペインサッカークラブ。2015-16シーズンからは、ラ・リーガに所属している。

エスタディオ・ベニート・ビジャマリンをホームスタジアムとして使用している。1907年9月12日に創設され、1934-35シーズンにクラブ史上唯一のプリメーラ・ディビシオン(1部)制覇を成し遂げた。コパ・デル・レイでは2度、1976-77シーズンと2004-05シーズンに優勝している。昇降格を繰り返すが人気が衰えないベティスを表すフレーズに、「ベティス万歳、たとえ敗れようとも!」(Viva Betis manquepierda!) というものがある[1][2]

クラブ名のベティスは、ローマ帝国時代の属州名ヒスパーニア・バエティカに由来する。バエティカはセビージャ市内を流れるグアダルキビル川を指し、範囲は現在のアンダルシア州に相当する。ベティスのサポーターはベティコ (beticos) と呼ばれ、歴史的背景から労働者階級層に強い支持基盤を持つとされる。同じセビージャを本拠地とし、富裕層を中心にファンが多いとされるセビージャFCとの試合はセビージャ・ダービーとして盛り上がる。
歴史
創設期

1905年にはライバルのセビージャFCが公式に創設された。2年後の1907年9月、セビージャ市内2番目のクラブとして、地元の工芸学校の学生によってセビージャ・バロンピエ (Sevilla Balompie) が創設された。バロンピエとは一般的に使用されるフトボル (futbol) と同じく、スペイン語でサッカーの意味である。バロンピエが公式に認可されたのは2年後の1909年であるが、クラブは設立年を1907年としている。また、1909年にはセビージャFCで内部分裂が起こり、離反した役員たちによってベティスFC (Betis Foot-ball Club) が設立された。当時のセビージャFCは労働者階級出身の選手との契約を拒んでおり、これに批判的な一派が旗揚げしたのがベティスFCだった。1914年、ベティスFCとセビージャ・バロンピエが合併し、アルフォンソ13世の庇護を受けて「レアル (王室の意味) 」が冠された結果、レアル・ベティス・バロンピエ (Real Betis Balompie) が誕生した。ファンはクラブをバロンピエと呼び続け、ファン自身はロス・バロンペディスタス (Los Balompedistas) という愛称で知られた。1930年代、ベティスとその形容詞的な用法であるベティコ (Beticos) がクラブやファンを語る際の一般的な用語となった。
1930年代の黄金期と衰退1934-35シーズンのリーグ優勝記念碑

1931年から1939年まではスペインで第二共和政が成立し、ベティスとレアル・マドリードはクラブ名から「レアル」の文字を取り除いた。スペイン内戦後に再びレアル・ベティス・バロンピエに戻るまで、ベティスは単にベティス・バロンピエ (Betis Balompie) と呼ばれた。1931-32シーズン、ベティスはクラブ創設25周年を初のセグンダ・ディビシオン(2部)優勝で祝い、アンダルシア州のクラブとして初めてプリメーラ・ディビシオン(1部)に参戦した。1934-35シーズン(1934?35 La Liga)にはパトリック・オコネル監督に導かれ、15勝4分3敗、勝点34の成績でクラブ初の(そして唯一の)リーグ優勝を果たした。2位は16勝1分5敗、勝点33のレアル・マドリードで、勝点わずか1差だった。FCバルセロナアスレティック・ビルバオ、レアル・マドリードに次ぐ4つ目の優勝クラブであった。しかし、翌1935-36シーズンは7位に終わった。これは、貧弱な財政状況に悩まされたことや、内戦への突入によって優勝メンバーの離脱が進んだためである。1936年から1939年までは内戦のためリーグ戦自体が開催されず、内戦終結後の1939-40シーズンに復活したが、このシーズン11位に終わり再びセグンダ・ディビシオン降格となった。
1940-50年代の暗黒期

1942-43シーズンには再びプリメーラ・ディビシオンに参戦したが、1シーズン限りでセグンダ・ディビシオン降格となった。その後のベティスは衰退を続け、1946-47シーズンにはテルセーラ・ディビシオン(当時3部相当)降格となった。ベティスがテルセーラ・ディビシオンで過ごした10年間は、クラブの独自性と本質を定めた鍵となる期間であったとみなすファンが多く、スペイン中から共感を得た。この期間には満員のスタジアムが好評を博し、アウェー試合でも見られた激しい応援は(ユニフォームカラ―から)「緑の行進 (Green March) 」として知られた。1953-54シーズンにテルセーラ・ディビシオンで優勝してセグンダ・ディビシオンに復帰し、プリメーラ・ディビシオン(1部)、セグンダ・ディビシオン(2部)、テルセーラ・ディビシオン(当時3部相当)の3カテゴリー全てで優勝経験があるスペイン唯一のクラブとなった。この暗黒期にベティスが多大な名声を得たことや、セグンダ・ディビシオン返り咲きを果たせたのは、マヌエル・ルイス・ロドリゲス会長の功労である。
ビジャマリン会長時代の繁栄1974-75シーズン

1955年、ロドリゲス会長はいっそうの経営的な成長を望めないとしてベティスの経営職を辞した。ロドリゲスの後任には、後に最も有名な会長として語り継がれるベニート・ビジャマリンが就任。ビジャマリンの在任中の1958年にプリメーラ・ディビシオンに返り咲き、1963-64シーズンには過去最高位の3位となった。1961年のエスタディオ・エリオポリス購入がクラブの歴史のターニングポイントとなり、エリオポリスは1997年までエスタディオ・ベニート・ビジャマリンと呼ばれた。後にスペイン代表として16試合に出場する期待の星ルイス・デル・ソルを世に出したのはビジャマリンの功績であるが、やがてデル・ソルを売却して不評を買った。彼は1965年まで10年間会長職にあったが、1966年に癌のために死去した。ビジャマリンがクラブを去ってからわずか1年後、ベティスは再びセグンダ・ディビシオンに降格し、1970年代後半にトップディビジョンでの地位を固めるまでは、昇格と降格を繰り返した。
コパ・デル・レイ初優勝と欧州カップ戦での成功

1977年6月25日、エスタディオ・ビセンテ・カルデロンで行われたコパ・デル・レイ決勝でアスレティック・ビルバオを破って初優勝を果たした。試合は2-2の引き分けでPK戦に突入し、両チーム合わせて21人がPKを蹴った末にPK戦8-7でベティスが勝利した。リーグ戦でも5位となり、充実したシーズンを過ごした。1977-78シーズンはUEFAカップウィナーズカップに出場し、1回戦でACミラン(イタリア)を破り、2回戦で1.FCロコモチフ・ライプツィヒ(東ドイツ)を破ったが、準々決勝でFCディナモ・モスクワ(ソビエト連邦)に敗れた。欧州カップ戦では全般的に良好な成績を挙げていたが、国内リーグ戦では1977-78シーズン終了後にセグンダ・ディビシオン降格となった。しかし、1シーズンでトップリーグに復帰し、その後は申し分ない期間を過ごした。続く3シーズンはいずれも6位以内で終え、1981-82シーズンと1983-84シーズンにはUEFAカップ出場権を獲得。1982-83シーズンの同大会では準優勝したSLベンフィカ(ポルトガル)に1回戦で敗れ、1984-85シーズンの同大会ではやはり1回戦でFCウニヴェルシタテア・クラヨーヴァ(ルーマニア)に敗れた。スペインで開催された1982 FIFAワールドカップでは、2試合がベニート・ビジャマリンで開催された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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