ルー・ブードロー
Lou Boudreauボストン・レッドソックス時代
(1953年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地イリノイ州ハーベイ
ルイス・ブードロー(Louis "Lou" Boudreau, 1917年7月17日 - 2001年8月10日)は、アメリカ合衆国イリノイ州ハーベイ(英語版)出身の元プロ野球選手(遊撃手)、監督。右投右打。
史上最年少の選手兼任監督であり、ブードロー・シフトを考案したことで有名。 イリノイ大学から1938年にインディアンスに入団し、9月9日メジャーデビュー。1940年は9本塁打ながら101打点を記録し、MVP投票で5位となる。 1941年オフにチームの会長に手紙で監督就任を願い出て、翌1942年史上最年少(24歳)の兼任監督となった。チャンスに抜群の強さを見せる打撃と共に、堅実な遊撃守備でも知られた。1940年から1948年までの9年間でリーグ守備率1位を8回記録した。とりわけ、ブードローの好守備で最も知られるのは1941年7月17日、対ニューヨーク・ヤンキース戦の8回表、ジョー・ディマジオの打った痛烈な二遊間のゴロを横跳びで掴み、併殺を完成させたプレーで、このファインプレーによりこの試合無安打に終わったディマジオは連続試合安打記録を56試合で途切れさせている。 1944年は打率.327で首位打者を獲得。1948年は監督としてはニューヨーク・ヤンキース、ボストン・レッドソックスとの激しい三つ巴の末、レッドソックス相手の1試合プレーオフに勝利してリーグ優勝。さらにボストン・ブレーブスとのワールドシリーズを4勝2敗で制してチーム28年ぶりの世界一を達成。打者としても打率.355、18本塁打、106打点の活躍で、ア・リーグMVPを受賞した。 1951年に兼任監督としてレッドソックスに移籍。1952年に34歳で現役を引退。1954年のオフに監督からも退いた。1955年から1957年途中にかけてカンザスシティ・アスレチックス、1960年にはシカゴ・カブスでも監督を務めた。監督としての成績は16年間で1162勝1224敗、勝率.487。1948年の世界一以外は3位が2回だけだったが、ボブ・レモンを三塁手から投手に転向させ、殿堂入りさせるなど多くの選手を育て上げた。 監督退任後はシカゴ・カブスの専属解説者として、1987年まで活動したが、その間の1966年から1968年の2シーズン、NBAシカゴ・ブルズのアナウンサーも兼任していた。ブードローのインディアンス在籍時の背番号「5」。 1970年にアメリカ野球殿堂入りを果たし、殿堂入りを記念して古巣インディアンスは在籍時の背番号『5』を永久欠番に指定した。 2001年8月10日、イリノイ州の自宅で死去。 1946年7月14日、監督兼遊撃手として出場したレッドソックスとのダブルヘッダー第2試合、左打ちの強打者テッド・ウィリアムズの第2打席にて、自軍の守備陣に投手・捕手・三塁手・左翼手以外の野手がフィールドの右側に移動するという変則守備シフトを指示した。このシフトは後に「ブードロー・シフト」と呼ばれるようになる[1]。 ウィリアムズはその前の第1試合で3本塁打を放っており、プルヒッターであった彼をどうにかして抑え込もうとしたブードロー苦心の作戦だった。日本でも対王貞治守備シフトとされる王シフトの原型は、このブードロー・シフトとされる。 他球団も追随したため、ウィリアムズは一時は三塁線にセーフティバントを試みたりがら空きの左翼を狙ったりしたが、ファンからブーイングを浴び、すぐに引っ張りの打撃に戻したという[1]。 年
経歴
クリーブランド・インディアンスの永久欠番に1970年指定。
ブードロー・シフト
詳細情報
年度別打撃成績
度球
団試
合打
席打
数得
点安
打二
塁
打三
塁
打本
塁
打塁
打打
点盗
塁盗
塁
死犠
打犠
飛四
球敬
遠死
球三
振併
殺
打打
率出
塁
率長
打
率O
P
S
1938CLE1210000000000--1--00--.000.500.000.500
193953256225425815408119213--28--0245.258.340.360.700
19401557066279718546109278101634--73--23923.295.370.443.814
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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