ルー・ブロック
Lou Brock
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地アーカンソー州エル・ドレード
ルイス・クラーク・ブロック(Louis Clark Brock, 1939年6月18日 - 2020年9月6日)は、アメリカ合衆国アーカンソー州エル・ドレード出身の元プロ野球選手(外野手)。
息子のルー・ブロックJr.(英語版)は元NFL選手である。 その後、実家にほど近いマールージュ
経歴
少年時代の農家に生まれたが、2歳の時にルイジアナ州コリンストン村に家族で移住。幼少期は貧しい中での生活だったという。少年時代はブルックリン・ドジャースのジャッキー・ロビンソンら黒人選手の活躍でファンになり、その後野球を志した。
大学時代
進学後、最初の年度は打率.189という成績だったが、翌年は改善して打率.500を記録して注目され、1959年の大学全米代表メンバーの1人に選出される。これで自信をつけたブロックはメジャーリーグへの入団を決め、セントルイス・カージナルスのトライアウトに挑戦するが、当時のカージナルスのスカウトの勧めもあり、シカゴ・カブスのトライアウトに参加、そしてアマチュア・フリーエージェントとして1960年にカブスと契約する。
マイナーチーム?カブス時代(1960年 - 1964年)カブス時代のブロック(1964年)
カブスとの契約後、まずはマイナーチームで始動することになり、初年度の1961年はセントクラウド・ロックス(ミネソタ州セントクラウド)にてプレーし、打率.361の高打率を記録する。
カブス陣営もブロックの高打率を聞いて昇格を決め、同年シーズン終盤に入った1961年9月10日にカブスに昇格してメジャーデビューを果たす。翌1962年からレギュラーとしてメジャーに定着し、同年はポロ・グラウンズでのニューヨーク・メッツ戦で歴代4人しかいないという中堅フィールドに叩き込む本塁打を放っている。
もっとも、主だったのはブロックの俊足であるが、当時のカブス陣営にはあまり注目されず、続く1963年のシーズンを通して打率.260[1]しか挙げられなかったこともあり、1964年6月15日にジャック・スプリング、ポール・トスとともに、アーニー・ブロリーオ、ダグ・クレメンス、そして1952年のMVPでゴールドグラブ賞8度のボビー・シャンツとのトレードでセントルイス・カージナルスに移籍することとなった。 移籍後、ブロックは左翼手にコンバートされ、好成績を挙げる。1964年シーズンは打率.348を記録することになり、同年カージナルスはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズにも出場、相手となったニューヨーク・ヤンキースを破りワールドチャンピオンに輝き、自身もシーズンMVPの第10位にランクされた[2]。 持ち前の俊足をさらに活かすようになり、1966年には74盗塁で初の盗塁王に輝く。その後1974年までの9年間のうち8度盗塁王に輝く[3]。 1967年は開幕4試合で5本塁打を放ち、前半戦.328の好成績で同年のオールスターゲームに出場、その後スランプに、終盤までに立て直して同シーズンはキャリアハイの打率.299、206安打を記録した。その勢いでチームはリーグ優勝を果たし、同年のワールドシリーズにてボストン・レッドソックスを迎え撃ち、これを破って自身2度目のワールドシリーズ優勝を果たす。 1968年も最多三塁打を記録するなど好成績を収めて、3度目のワールドシリーズに出場、デトロイト・タイガースを迎え撃ちチームは第4戦までに3勝1敗と、あと1勝でワールドチャンピオンとなるところだった。その第5戦の5回、ブロックは二塁打で進塁し、後続のユリアン・ハビアー
カージナルス時代(1964年 - 1979年)
1974年、モーリー・ウィルスがもつシーズン104盗塁を破る、シーズン118盗塁という当時のMLB記録を樹立[4]。1975年5月27日にはサイクル安打を達成するが、同年連続盗塁王の記録が途絶える。1977年にはタイ・カッブが持つ通算892盗塁を破る。
1979年8月13日に史上14人目の3000本安打を達成。この3000本安打は投手強襲の内野安打で、さながら俊足のブロックらしいといえる3000本安打達成だった。同年のシーズンを最後に現役を引退するが、最後のシーズンで打率.304を記録している。この年のオフには、日本ハムファイターズへの入団も噂されたが、実現しなかった[5]。ブロックのカージナルス在籍時の背番号「20」。
セントルイス・カージナルスの永久欠番に1979年指定。
その引退とともにブロックの背番号『20』はカージナルスの永久欠番に指定された。通算938盗塁の記録は引退後、1983年に日本の福本豊、1991年にリッキー・ヘンダーソンに抜かれるまで世界記録だった。
引退後カージナルス特別アドバイザーとして現場に立つ(2005年のスプリング・トレーニングにて)
引退後はセントルイスを中心に生花店を経営するほか、解説者活動や古巣カージナルスの特別アドバイザーを務める。1985年、資格取得1年目で野球殿堂入り[6]。