ルー・テーズ
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ルー・テーズ
NWA世界ヘビー級王者時代(1950年代)
プロフィール
リングネームルー・テーズ
本名アロイジアス・マーティン・セッズ
ニックネーム鉄人
20世紀最高のレスラー
身長191cm
体重110kg(全盛時)
誕生日1916年4月24日
死亡日 (2002-04-28) 2002年4月28日(86歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ミシガン州バナット
トレーナージョージ・トラゴス
エド・ルイス
アド・サンテル
ウォーレン・ボックウィンクル
デビュー1932年
引退1990年
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ルー・テーズ(Lou Thesz、本名:Aloysius Martin Thesz、1916年4月24日 - 2002年4月28日)は、ミシガン州バナット出身のハンガリー系アメリカ人プロレスラー

ファミリーネームの "Thesz" は英語圏では「セーズ」とも発音される(出自であるハンガリーでの原音は「テース (Thesz)」)。日本では「鉄人」の異名を持ち、多くのレスラーから20世紀最強であるといわれた、不世出のレスラーである。16歳でのデビューから、74歳での引退まで実に58年間もの現役生活を通した、20世紀を代表するプロレスラーであった。
来歴.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、インド・ヨーロッパ語族風にラヨシュ・ティヤシュと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名

1916年4月24日ミシガン州バナットにて、オーストリア・ハンガリー帝国からのハンガリー人移民の靴修理工でレスリング選手でもあった父・ティヤシュ(ティザ)・マールトン(Tijas (Tiza) Marton)と、ドイツ人移民の母との間に生まれた。生誕時の名はティヤシュ(ティザ)・ラヨシュ(Tijas (Tiza) Lajos)で、他に3人の姉妹がいた。

1918年に一家はミズーリ州セントルイスへ移住。ファミリーネームもセーズ(Thesz)に改められ、アメリカ式に父親のマールトンはマーティン・セーズ(Martin Thesz)、ラヨシュはルー・セーズと改名。以降、幼少期から父マーティンにグレコローマンスタイルのレスリングの手ほどきを受けて育つ。父親に連れられてしばしばプロレス観戦に出かけることもあった[1]

1933年9月、ミズーリ州セントルイスのハリー・クック・アリーナにて、ジョン・アンダーソンを相手に16歳でプロレスのデビュー戦を行い、引き分ける。若い頃よりスター選手に会う機会に恵まれ、マーティン "ファーマー" バーンズ(英語版)、フレッド・グラブマイヤーらに遭遇している[2]1936年 頃、セントルイスのジムにてエド "ストラングラー" ルイスと出会い、スパーリングも行う[3]。後年、ルイスはテーズの専属マネージャーとなる。

1937年1月、当時新聞記者だったサム・マソニックと邂逅。マソニックは熱心なプロレスファンでもあり、30日間にわたりテーズの特集を組んだ。これを機にテーズは一気に知名度を上げる。なお、マソニックはのちに新NWA立ち上げの中心人物となり、テーズとはプロモーターとプロレスラーの関係でNWAを発展に導いている[4]

1937年12月29日、ジョン・ペセク(英語版)を破り21歳でミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(オハイオ版MWA)世界ヘビー級王者となる[5][6]。当時、アリ・ババエベレット・マーシャルなど、概ねキャリア10年程度、30歳前後で世界王者に就くのが慣例であり[7]、テーズの世界王者奪取は異例の早さであった。また、ボストン版アメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)世界ヘビー級選手権をユーボン・ロバート(英語版)と1938年2月11日に争う予定であったが、ロバートがテーズ戦を拒否したため、1938年1月25日付でテーズにAWA世界王座も授与される。しかし1月の防衛戦で耳を負傷し、トレーニングも出来ないまま臨んだ2月11日のスティーブ・ケーシー(英語版)戦に敗れて王座転落[8]

1939年2月23日、ミズーリ州セントルイス(あるいはコロラド州デンバー)でエベレット・マーシャルを破り、ナショナル・レスリング・アソシエーション(旧NWA)版の世界ヘビー級王者となった。

1939年6月23日または7月19日、テキサス州ヒューストンでブロンコ・ナグルスキー(英語版)に敗れNWA王座から陥落。この際に左膝を負傷し、約1年にわたる長期欠場を余儀なくされる。なお左膝は生涯テーズの古傷となり、70歳で右臀部を手術したのも、左膝を庇う行動を長年続けてきたためだと述懐している[9]

1943年アメリカ合衆国陸軍に入隊、体育教官となった。テキサス州ヒューストン駐屯地で約4年間過ごした。この際もプロレス興行は継続する(当時は興行売り上げの20%が軍費として徴収されるシステムとなっており、軍費獲得のためにも興行は歓迎された)[10]

1946年9月11日、カナダ・モントリオールでボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。1947年2月20日にマナゴフに奪回された後、同年4月16日に返り咲くが、同地でユーボン・ロバートに敗れ王座から陥落。

1947年4月25日、セントルイスでホイッパー・ビリー・ワトソンを破り、旧NWA世界ヘビー級王座を獲得。1947年11月21日にワイルド・ビル・ロンソン(英語版)に敗れるまで保持。

1948年7月20日、ビル・ロンソンを破り旧NWA世界ヘビー級第23代王者(NWA通算で第38代王者)となった。連勝記録の始まり。1949年11月、新NWAによる王座の正当化により、第38代王者(新NWA第2代王者)と認定された。過去獲得したものも第23、26、36代(旧NWAでは8、11、21代)として認定された。

1953年12月6日、ハワイのシビック・オーディトリアムで、力道山と初対戦し勝利する。

1955年5月22日、レオ・ノメリーニに反則負けを喫し、連勝記録が止まる。しかし反則裁定のためタイトルは移動しなかった。記録は引き分けを挟んで936連勝だが、テーズ自身は936連勝記録を否定しており、実際は936を超える連勝記録を持っていた。

1956年3月、ビリー・ワトソンに敗れ第38代NWA王座から陥落するも同年11月9日、ワトソンを破り奪回に成功。

1957年10月、日本プロレスに初来日。力道山とNWA世界ヘビー級選手権で2度に渡り名勝負を繰り広げた。

1957年11月14日、トロントディック・ハットンに敗れNWA世界ヘビー級王者から陥落。1958年6月、世界各国を回り積極的に防衛を重ねた実績が認められ、ヒューストン地区からインターナショナル・ヘビー級王座の初代王者に認定された。しかし、1958年8月27日、力道山に敗れてインターナショナル・ヘビー級王座から陥落した。

1963年1月24日、トロントでバディ・ロジャースを破りNWA世界ヘビー級王座に返り咲く。これが最後の戴冠となり、1966年1月7日にジン・キニスキーに敗れるまで保持した。

1966年2月28日、日本プロレスに特別参加し、ジャイアント馬場の持つインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。結果は馬場が2度目の防衛に成功。テーズから2ピンフォール取っての防衛は馬場の大きな勲章となった。同年10月14日、カリフォルニア州ロサンゼルスにてバディ・オースチンからWWA認定世界ヘビー級王座を奪取したが、同月28日にマーク・ルーインに敗れ短命王者となっている[11]


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