ルー・ゲーリッグ
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ルー・ゲーリッグ
Lou Gehrigルー・ゲーリッグ (1923年撮影)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市
生年月日1903年6月19日
没年月日 (1941-06-02) 1941年6月2日(37歳没)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション一塁手
初出場1923年6月15日
最終出場1939年4月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


コロンビア大学

ニューヨーク・ヤンキース (1923 - 1939)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1939年
選出方法BBWAAによる特別選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ヘンリー・ルイス・ゲーリッグ(Henry Louis Gehrig, ドイツ語: Heinrich Ludwig Gehrig(ハインリヒ・ルートヴィヒ・ゲーリヒ), 1903年6月19日 - 1941年6月2日)は、メジャーリーグプロ野球選手内野手)。ニューヨーク州ニューヨーク市生まれ。左投左打。1920年代から1930年代にかけてニューヨーク・ヤンキースで活躍した。三冠王をはじめ、打撃タイトルを多数獲得し、史上最高の一塁手と称される[1][2][3]
概要

ゲーリッグは毎日プレーを厭わないその頑丈さから鉄の馬(Iron Horse)と呼ばれ、1925年から1939年の14年間に渡り、当時の世界記録となる2130試合連続出場を果たした。しかし、1939年、体調異変を感じて自ら欠場を申し入れ、記録は途切れた[4]。後の診断で筋萎縮性側索硬化症と診断されたゲーリッグは引退を決意した(この病気は「ルー・ゲーリッグ病」と称されることもある[4])。

ゲーリッグが現役生活の晩年に手のレントゲン撮影を行ったところ、手だけで17もの骨折箇所が見つかった。連続出場はこれほどまでに身体に負担を強いており、筋萎縮性側索硬化症の発症がなくても、遠からずその記録は途切れていただろうと推察される。

記録のためにただ出場を続けていたわけではなく、MLB史上に残る非常に優れた打者でもあった。17年間で2000近い打点を挙げ、生涯打率は.340(歴代17位)。通算の長打率OPSは歴代3位、出塁率でも歴代5位の.447と、打席に立てばほぼ2回に1回は塁に出た。オールスターに7回選ばれ(オールスターは1933年が初開催)、1927年1936年にはアメリカンリーグMVPを受賞、1934年には三冠王を獲得している。

1939年に当時史上最年少で殿堂入りを果たし、MLB史上初めて自身の背番号「4」が永久欠番に指定された選手にもなった。

ゲーリッグは1941年6月2日に37歳で死去し、翌1942年にゲーリッグの半生を描いた『打撃王』が公開された。

ゲーリッグの連続試合出場記録は当初不滅の記録と思われていたが、1987年6月13日、日本衣笠祥雄広島)に更新され、MLBでは1995年9月6日カル・リプケン・ジュニアボルチモア・オリオールズ)によって更新された。

その他のニックネームには"Columbia Lou"、"Biscut pants"、"Larrupin' Lou"というものがあった。
野球人生
プロ入り前

ドイツ系移民である父ハインリヒと母クリスティーナ・ファクの息子としてニューヨーク市に生まれる。父親はてんかんを患っていたため、母親が生計を立てていた。両親は野球でゲーリッグが食べていけるとは思っておらず、母親は叔父がドイツで建築家として成功していたため、息子も同じ道を歩ませようとしていた。

初めて野球で全国の注目を集めたのは、1920年6月26日のカブス・パーク(現在のリグレー・フィールド)で行われた試合であった。ゲーリッグのニューヨーク商業高校とシカゴのレーン工業高校との対戦で、8回まで8-6で勝っている中、9回表に場外満塁本塁打を打ち試合を決定付けた。大学時代のゲーリッグ(1921年)

ゲーリッグはコロンビア大学に通ったが、同チームの野球部では試合に出場することができなかった。その理由は大学1年生の夏休みに夏季プロリーグでプレーしてしまったためで、当時のゲーリッグはこれにより大学で野球に限らず全てのスポーツをプレーできなくなる可能性を認識していなかった。しかし、結果的にはアメリカンフットボール部での試合出場が認められ、フルバックとして活躍した。

息子の野球での活躍が新聞などで報じられるにつれ、母親も息子が野球選手を職業にできるかもしれないと思うようになってきた。ゲーリッグ自身も、当時熱心に誘ってくれたヤンキースと契約を結ぶか大学に残って卒業するかを迷ったが、母親が肺炎を患ったため、ヤンキース入りを決断し、契約金で医療費を賄うことにした。さらには残余金で、両親に初めての旅行をプレゼントした。
ヤンキースでの活躍

1923年の途中からヤンキースの一員となり、同年6月15日には代打としてメジャーデビューを果たす。最初の2年間は出場機会も限られており、1923年のワールドシリーズのメンバーには登録されなかった。当時の看板選手であるベーブ・ルースの直接指導の甲斐もあって1925年にはレギュラーに定着し、437打席で打率.295、20本塁打68打点を挙げた。

1926年に主力打者として大きく開花し、打率.313に47本の二塁打と、アメリカンリーグでトップの20三塁打、16本塁打、112打点を挙げた。


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