ルー・ウォーレス
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ルー・ウォーレス
Lew Wallace
1827年4月10日-1905年2月15日(77歳没)
ルー・ウォーレス将軍
生誕インディアナ州ブルックビル
死没インディアナ州クロウフォーズビル
軍歴1846年-1847年、1861年-1865年
最終階級少将
指揮

テネシー軍第3師団
第8軍団および中部方面郡
戦闘

南北戦争

ドネルソン砦の戦い

シャイローの戦い

コリンスの包囲戦

モノカシーの戦い

除隊後『ベン・ハー』著者
ニューメキシコ準州知事、
駐オスマン帝国大使
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ルイス・"ルー"・ウォーレス(: Lewis "Lew" Wallace、1827年4月10日-1905年2月15日)は、アメリカ合衆国政治家および著作家弁護士、州知事、南北戦争のときの北軍将軍。
伝記
生い立ちと初期の経歴

ウォーレスはインディアナ州ブルックビルで、デイビッド・ウォーレスとエスター・フレンチ・テスト・ウォーレス夫妻の息子として生まれた。父は陸軍士官学校を卒業しており[1]、インディアナ州の副知事と知事を務めた。継母のゼレルダ・グレイ・サンダース・ウォーレスは著名な禁酒運動の提唱者であり、女性参政権運動家だった。

1836年、9歳の時にクロウフォーズビルにいる兄に合流し、短期間ウォバシュ・プレパラトリー・スクールに通学した。その後インディアナポリスにいた父のところに戻った[2]

ウォーレスは1846年米墨戦争が始まった時法律を学んでいた。このとき民兵の1個中隊を立ち上げ、第1インディアナ連隊の少尉に選ばれた。その後連隊の副官と中尉に昇進し、戦闘には参加しなかったもののザカリー・テイラー将軍の軍隊に仕えた[3]。戦後、1847年6月15日に志願兵任務から解除された[4]1849年には法廷弁護士として認められた。1851年、第1連邦議会地区の検察官に選出された[2]

1852年5月6日、ウォーレスはスーザン・アーノルド・エルストンと結婚し、1人の息子ヘンリー・レイン・ウォーレスが生まれた(1852年2月17日)。1856年、住所をクロウフォーズビルに移した後にインディアナ州上院議員に選ばれた。
南北戦争

南北戦争が始まると、ウォーレスは州兵長官に指名され、インディアナ州で部隊を立ち上げることに貢献した。1861年4月25日、第11インディアナ歩兵連隊の大佐に指名された。バージニア州西部で短期間従軍した後で、9月3日に志願兵の准将に昇進し、1個旅団の指揮を任された[4]
ヘンリー砦およびドネルソン砦

1862年2月、ヘンリー砦に対する進軍の準備をしている時に、ユリシーズ・グラント准将が2隻の木製砲艦(ティンバークラッズ)にテネシー川を下らせ、1隻には砦の偵察のためにウォーレスを乗船させた。ウォーレスはその報告書で、砦の1人の士官が北軍の艦船を、ウォーレス達が彼を見ているのと同じくらい物見高く観察していたと記した。このときウォーレスはその士官がロイド・ティルマン准将であることをほとんど知らなかったが、数日後にはウォーレスが取って代わることになる砦の指揮官だった。この方面作戦の間、ウォーレスの旅団はチャールズ・F・スミスの師団に付けられ、ヘンリー砦の対岸にあったハイマン砦を占領した。グラントの上官、ヘンリー・ハレック南軍の増援がヘンリー砦を取り返しにくることを心配していたので、グラントはヘンリー砦の指揮にウォーレスとその旅団を残し、残りの軍隊は陸路ドネルソン砦に向かった。

ウォーレスは後に残されたことに不満だったので、命令が来れば直ぐに動き出せるように部隊に準備させた。その命令は2月14日に来て、ウォーレスがカンバーランド川沿いに到着したとき、輸送船で到着する増援兵の師団としての組織化を命じられた。ウォーレスは2個旅団は組織化できたが3個目は未完成となり、ドネルソン砦を包囲しているグラントの戦線で中央に陣地を占めた。2月15日の南軍による激しい攻撃の間、ウォーレスは自分の考えで冷静に行動し、グラントからは会戦を避けるよう命令が来ていたものの、ジョン・A・マクラーナンド准将の追い詰められた師団に1個旅団の増援を送った。この行動は北軍の守備戦線を安定させる重要な役割になった。この南軍の攻撃が止められた後で、ウォレスは反撃を指揮し、失っていた陣地を取り戻した。ウォーレスは3月21日から少将に昇進した[5]
シャイロー

ウォーレスの最も議論を呼んだ指揮は、グラントの下で師団指揮官を続けていたシャイローの戦いの時のことであった。ウォーレスの師団は北軍戦線の後方ストーニー・ロンサムと呼ばれる場所に予備隊として置かれていた。1862年4月6日午前6時頃、グラント軍はアルバート・ジョンストン将軍が指揮する南軍の突然の出現で急を衝かれ事実上総崩れに近くなった時、グラントはウォーレスにウィリアム・シャーマンの師団を支援するためにその部隊を移動させるよう命令を送った。

ここから議論が始まる。ウォーレスはグラントの命令書には署名が無く急いで書かれた様子であり、全体が曖昧だったと主張した。ウォーレスが前線に部隊を動かす場合2つの経路があり、グラントは(ウォーレスの言に拠れば)どちらの経路を採るかを指定していなかった。ウォーレスはあまり使われておらずかなり状態の良かった上側の経路を選び、それでシャーマン隊が居ると知っていた場所の右側に出るはずだった。グラントは後に、ウォーレスには下側の経路を通るよう指示したと主張したが、状況証拠から見るとグラントは1つ以上の経路があることすら忘れていたようである。

いずれにしても、ウォーレスはその行軍の目的地に着いて、シャーマン隊が後退を強いられた後であり、ウォーレスが考えていた位置にはもはやいないことが分かった。さらにシャーマン隊がかなり後退していたので、ウォーレスの部隊は前進する南軍の後に出てしまったことも分かった。それでもグラントの伝令が到着し、グラントはウォーレス隊がどこにいて、何故北軍が陣を構えているピッツバーグ・ランディングに来ないのか不思議がっているという伝言を伝えた。ウォーレスは混乱した。ウォーレスは彼がその時いた場所から攻撃を掛けることができ、南軍を後から叩けると考えた。それにも拘らずウォーレスは部隊を回転させストーニー・ロンサムに戻ることにした。戻るとすれば隊列の後衛が先頭になるはずだったが、何らかの理由で、ウォレスは部隊の当初の隊形を維持させるために部隊をぐるっと回らせて行軍させるやり方を選んだ。ウォーレスは戦場に着いた時にその砲兵隊が歩兵隊を支援できないような場所になっていたと主張した。

ウォーレス隊はストーニー・ロンサムに戻り、午前11時に到着した。出発した地点に戻るまでに5時間を要しており、部隊兵にはあまり休みが無かった。それからピッツバーグ・ランディングにむけて下側の経路を辿り始めたが、その道は最近の暴風雨とその前に通った北軍部隊のためにひどく荒された状態となっており、行軍速度が極めて遅くなった。ウォーレス隊は午後7時ごろにやっとグラントの陣地に到着したが、その時は戦闘が事実上終わっていた。グラントは喜ばなかった。それでも北軍は翌日盛り返して戦闘に勝った。ウォーレスの師団は北軍の最右翼に位置し、4月7日の攻撃では先鋒になった。

当初、このことの後遺症はほとんど無かった。ウォーレスは北軍のその地位にある者として最も若い将軍であり、「将来性のある青年」のようなものだった。しかし間もなく、北部の市民がシャイローでの恐ろしい損失について知り始め、軍隊は釈明を必要とした。グラントもその上官であるハレックも真っ向からウォーレスを非難し、その予備隊を動かす能力が無かったために戦闘の損失を増やしたと言った。一方、シャーマンはこの問題については沈黙を守った。ウォーレスは6月に指揮官から外され、ブラクストン・ブラッグケンタッキー州に侵入した時には、オハイオ軍にあってシンシナティ防衛を指揮するかなり魅力の無い任務を割り当てられた。
その後の従軍

ウォーレスの最も顕著な活躍の場は1864年7月、1864年のバレー方面作戦の一部であるモノカシーの戦いだった。ウォーレスの指揮した部隊(ほとんどが徴兵期間100日の第8軍団の兵士)と第6軍団ジェイムズ・B・リケッツの師団が、南軍のジュバル・アーリー将軍の部隊に敗れたが、ウォーレスはワシントンD.C.に向けたアーリー軍の進軍を遅らせることができ、ワシントン市の防衛隊を整える時間ができて、アーリー軍を撃退した。

グラント将軍の自叙伝にはモノカシーでウォーレスが採った遅延戦術について次のように評価している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}もしアーリーがほんの1日早ければ、私が送った援軍が到着するまえに首都に入ったかもしれない。


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