ルーヴル美術館
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この項目では、フランス美術館について説明しています。NHKのドキュメンタリー番組については「NHK特集 ルーブル美術館」をご覧ください。

ルーヴル美術館
Musee du Louvre
ルーヴル美術館
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施設情報
専門分野美術
来館者数

740万人(2016年)[1]

世界第一位

Ranked 1st globally

館長ロランス・デカール
開館1793年
所在地 フランス パリ 1区
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度51分37秒 東経2度20分15秒 / 北緯48.860339度 東経2.337599度 / 48.860339; 2.337599
アクセス

パレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル駅

ルーヴル=リヴォリ駅

外部リンクwww.louvre.fr
プロジェクト:GLAM
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ルーヴル美術館(ルーヴルびじゅつかん、: Musee du Louvre)は、パリにあるフランスの国立美術館。世界最大級の美術館(博物館)であるとともに世界最大級の史跡のひとつで、パリ中心部1区セーヌ川の右岸に位置する。収蔵品38万点以上。先史時代から19世紀までのさまざまな美術品3万5,000点近くが、総面積6万600平方メートルの展示場所で公開されている。世界でもっとも入場者数の多い美術館で、毎年800万人を超える入場者が訪れ[2]、2018年は初めて1,000万人を超えた[3]。フランスの世界遺産であるパリのセーヌ河岸にも包括登録されている[4]

そのコレクションの一部は、日本を含め海外へ貸し出されることも多い[5]
概要

ルーヴル美術館は、フランス王フィリップ2世12世紀に、もともとは要塞として建設したルーヴル城(ルーヴル宮殿)に収容されている。現在の建物にも要塞として使用されていた当時の面影が一部残っているが、幾度となく増改築が繰り返されて、現在のルーヴル宮殿の建物となっている。フランソワ1世の改築計画以来、歴代フランス王の王宮として使用されていたルーヴル宮殿だったが、1682年にフランス王ルイ14世が、自身の王宮にヴェルサイユ宮殿を選び、ルーヴル宮殿の主たる役割は、1692年以来収集されてきた古代彫刻などの王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となった[6]。1692年にはルーヴル宮殿に、フランス学士院碑文・美文アカデミーと王立絵画彫刻アカデミーが収容され、1699年に最初のサロンが開催されている。アカデミーはその後100年にわたってルーヴル宮殿に設置されていた[7]。そして、フランス革命下の憲法制定国民議会で、ルーヴル宮殿をフランスが保有する優れた美術品を展示する美術館として使用することが決定された。

美術館として正式に開館したのは1793年である。このときには、王室所有だった、あるいはキリスト教教会財産から没収された絵画を中心として、537点の絵画が展示されている。しかしながら、建物の構造上の問題から1796年にいったん閉館されており、1801年に再度開館した。フランス皇帝ナポレオン1世が、諸国から美術品を収奪したことにより所蔵品は増大していき、美術館も名前を「ナポレオン美術館 (Musee Napoleon)」と改名したこともあった。その後、ワーテルローの戦いの敗戦でナポレオン・ボナパルトフランス皇帝位を追われ、ナポレオン軍が収奪していた美術品の多くが元の持ち主たちに返還されている。王政復古でフランス王となったルイ18世シャルル10世の統治時代、さらにフランス第二帝政時代でルーヴル美術館の所蔵品はさらに増え続け、2万点を超える美術品が集められた。その後に成立したフランス第三共和政の時代にも、ルーヴル美術館の所蔵品は遺贈や寄贈などによって着実に増えていった。2003年に「イスラム美術部門」が創設され、所蔵品が「古代エジプト美術部門」「古代オリエント美術部門」「古代ギリシアエトルリアローマ美術部門」「イスラム美術部門」「彫刻部門」「工芸品部門」「絵画部門」「素描版画部門」の8部門に分類されることとなった[8]
沿革 詳細は「ルーヴル宮殿」を参照
12 - 20世紀
中世・ルネサンス期・ブルボン王朝期ルーヴル宮殿地下室。中世ルーヴル城の面影が残る唯一の場所[9]

現在ルーヴル美術館として使用されているルーヴル宮殿は、12世紀にカペー朝第7代のフランス王フィリップ2世(在位1180年 - 1223年)が要塞として建設したルーヴル城をもととしており、当時の建物の面影が現在も地下室に残っている[9]。ただし、ルーヴル城が、すでに存在していた別の建造物を増改築した要塞だったのか、一から建てられた要塞だったのかどうかは伝わっていない[10]。セーヌ川の中洲であるシテ島は、中世においてもパリの中心地であった。都市の防衛という面で、街の中心を流れるセーヌ川自体が防御の弱点となっていたため、防衛要塞たるルーヴル城が建設された[11]。円筒形で、径約15メートルのドンジョン(主塔、天守)の周囲に方形の城壁(約78×72メートル)を巡らした要塞は、20年余の歳月を要して完成した[12]。この城壁は、現代のルーヴルのシュリー翼の位置にあたり、シュリー翼の中庭(クール・カレ)の南西側4分の1の面積に相当する。当時のルーヴルは宮殿ではなくまさに要塞であり、建物の役割は大部分が牢獄や人質の監禁場所にあてられていた[13]。パリ市の防衛のために建造されたルーヴル城であったが、この英国など外国からの攻撃にさらされることは結局なかった[14]。当時のルーヴルの遺構は、のちのナポレオン3世の時代、1866年にも発掘調査が行われているが、本格的・学術的な発掘調査が行われたのは1984年から1986年のことである[15]。また、1991年に発掘された城壁の一部は、地下ショッピングセンターの大ホールで一般に公開されている[14]

「ルーヴル (louvre)」 の語源については複数の説がある。12世紀後半のパリで最大の建築物だったことから「偉大な」を意味するフランス語「L'?uvre」からという説、森の中に建てられたことから「オーク」を意味するフランス語「rouvre」からという説、『ラルース百科事典』の「狼狩り」と関係するラテン語「lupus」が変化した、ビザンチン帝国で使われていたラテン語「lupara」から派生したという説などがある[10][16]。また、7世紀フランスモー女子大修道院長聖ファーレは「パリ地方にルーヴラ (Luvra) と呼ばれる邸宅がある」という記録を修道院に残しているが、この記述の「パリ」はおそらく現在のパリとは違う地域を指していると考えられる[17]シャルル5世時代のルーヴル(『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より)

ルーヴル宮殿は中世時代を通じて何度も改築されている。14世紀にはフランス王シャルル5世(在位1364年 - 1380年)が、レーモン・デュ・タンブルに命じてルーヴル城を改修し、「要塞」のイメージが強かったルーヴルを、規模は従来のままで、華やかな「城館(シャトー)」へと造り替えた[18]。1546年にはフランソワ1世が、ルネサンス様式の壮麗な建物への改築を決定した[19]。このフランソワ1世が収集した美術品、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』などが、ルーヴル美術コレクションの中核となっていった[20]。フランソワ1世は、1528年にルーヴル城のドンジョン(主塔)を取り壊した。1546年には建築家ピエール・レスコに命じて、旧城を取り壊し新たな宮殿を建築する工事を開始したが、その翌年フランソワ1世が死去したため、ルーヴル城の改築は息子のアンリ2世(在位1547年 - 1559年)に引き継がれた[21]。アンリ2世の死後、その妃カトリーヌ・ド・メディシスが、ルーヴルの西約500メートルのところに新たな宮殿の建築を始めさせた。かつて(テュイル)製造工房があったことからテュイルリー宮殿と呼ばれるこの宮殿は、フィリベール・ドロルムの設計で、1563年から建築が開始され、完成には約1世紀を要した[22]

ヴァロア王朝の終焉後、ブルボン王朝の初代の王であるアンリ4世(在位1589年 - 1610年)は、旧ルーヴル城の部分を4倍の面積に広げ(現代のシュリー翼に相当)、セーヌ河に沿ってルーヴルと西のテュイルリー宮殿を直接結ぶ、長大な回廊(現在の「大展示室 (Grande Galerie)」)を建設させた。グランド・ギャルリの建設やクール・カレ(方形中庭)の拡張を含む「グラン・デッサン(大計画)」はアンリ4世の時代に開始されたが、造営は次のルイ13世(在位1610年 - 1643年)の時代にも引き継がれた[23]。太陽王ルイ14世(在位1643年 - 1715年)もさらなる拡張計画を進め、1657年からは建築家ルイ・ル・ヴォーが中心となって、クール・カレ(方形中庭)の拡張、ならびにルーヴル宮殿とテュイルリー宮殿を結ぶ建物の工事が進められた[24]。しかしながら、1682年にルイ14世が自身の宮殿に、それまでの歴代フランス王が宮廷としていたルーヴル宮殿から、ヴェルサイユ宮殿へと宮廷を移すことを決めた。宮廷の移動にともなうヴェルサイユ宮殿の改築工事は遅れがちではあったが、遷宮は予定どおりに行われ、王族が不在となったルーヴル宮殿は、芸術家たちの住居兼アトリエとして提供されることとなった[19][25][26]

1747年に出版された美術評論家ラ・フォン・ド・サン=ティエンヌの著作がきっかけで、18世紀半ばに王室美術コレクションを公開展示するギャラリーを設置しようという気運が高まった[27]。1750年10月14日にルイ15世がギャラリーの設置を承認し、リュクサンブール宮殿に「王室絵画ギャラリー (Galerie royale de peinture)」を設け、王室コレクションが所蔵する96点の絵画作品を展示することを許可した。ギャラリーの開館には、ル・ノルマン・ド・トゥルヌエム (en:Charles Francois Paul Le Normant de Tournehem) と、マリニー侯爵アベル=フランソワが立会っている。


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