ルール占領
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エッセン市内を行進するフランス陸軍騎兵(1923年)

戦間期におけるルール占領(ルールせんりょう)とは、1923年に発生したフランスおよびベルギーが、ドイツルール地方に進駐、占領した事件。当時の同地方はドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部であった[1]
前史「第一次世界大戦の賠償」も参照

第一次世界大戦ドイツ帝国軍侵攻により、フランスおよびベルギーの炭鉱地帯は大きな損害を受けた[2]。戦後処理を討議したパリ講和会議等でフランスはドイツに対して多額の賠償金と、自国およびベルギーに対する石炭の現物支給を要求し、ヴェルサイユ条約などで賠償支払いおよび石炭の無償供給が定められるとともに[2]、ルール地方を含むラインラント非武装地帯化が定められた。しかしドイツの採炭能力も極度に低下しており、決定された量の半分以下しか供給することができなかった[2]。フランスのアレクサンドル・ミルラン首相は、1920年2月のロンドン会議においてドイツの条約不履行を責め、連合国がドイツ最大の工業地帯にして炭鉱地帯であるルール地方を保障占領するべきだと主張した[2]。イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相はドイツの不履行は不可抗力によるもので、自発的な不履行でない限りそのような強硬手段に出るべきではないと反論し、ミルランも折れた。しかし石炭供給状況はいっこうに改善されず、フランスはその後もルール地方の占領を主張し続けた[2]。「ルール蜂起」も参照

1920年3月13日にはカップ一揆が発生、ドイツ政府はこれに労働者にゼネストをよびかけることで対抗し、鎮圧した。しかしルール地方のゼネストはその後も鎮静化せず、復帰した政府に様々な要求を突きつけるなど混乱していた[3]。カップ政府をふくむドイツ政府はルール地方への出兵を検討し、連合国側に打診していたが、フランスはこれもドイツの条約不履行姿勢であると批判し、連合国による占領を重ねて主張した[4]。一方イギリスはヴェルサイユ条約を緩和しても共和政政府を助けるべきであると考えており、フランスの強硬姿勢にはあくまで反対であった[4]。フランスはドイツと直接交渉を行い、イギリス政府関係者を激怒させた[5]。4月3日、ドイツは連合国の許可を得ないままルール地方に派兵した。フランスはこれに対抗してイギリスの反対を押し切って派兵し、フランクフルト・アム・マインダルムシュタットハーナウホンブルクディーブルクの五都市を占領した[6]。ベルギーはフランスの行動を支持したが、イギリスはフランスの行動に激怒し、両国関係は英仏協商締結以来、最悪の状態となった[6]。フランスはイギリスの撤兵要求に対して、ドイツが撤兵するまで占領を続けると回答し、ドイツ軍が撤兵した後の5月17日まで占領を続けた[7]
賠償金支払いの開始

1921年1月からパリで賠償金総額を確定する会議が開催された。会議の結果、ドイツは総額2260億金マルクを42年間にわたって支払うことが求められた[8]。ドイツは賠償総額の削減を求めたが、3月1日から開催されたロンドン会議においてその要求は拒否され、8日からはデュッセルドルフなどが一時占領された。5月5日、連合国は賠償金の総額を1320億金マルクとし、ドイツは年20億金マルクと輸出額の26%を支払うように求め、ドイツが拒否した場合はルール地方を占領するという通告(ロンドン最後通牒)を行った[8]。賠償金削減に努力してきたドイツのフェーレンバッハ内閣は、この要求によって連立政権内部が紛糾し、総辞職した。それを受けて5月10日に成立したヴィルト内閣は少数与党であったが、ドイツ社会民主党独立社会民主党中央党、そしてドイツ民主党の大半の議員が要求受諾を受け入れ、220対172で可決された[9]。ヴィルトは賠償金支払いの「履行政策」を掲げ、5月31日に10億マルクの支払いを開始した[9]

しかし1921年度分の賠償を支払うことはできたものの、翌年分の支払いは困難となった。12月14日にドイツは賠償委員会に対して翌1922年1月と2月の賠償支払い延期を要請した。委員会は延期を認めたものの、支払計画の提出と、一部の賠償支払いを要求した[10]。この間にフランスでも政変が起こり、対独強硬派のレイモン・ポアンカレが首相となった。ヴィルト内閣は税制改革や強制公債発行などを主軸とする支払計画を作成したが、強制公債に対してはドイツ国内でも強い反発があった[11]。しかしインフレーションの進行により、公債による賠償資金調達は失敗に終わった[12]。ドイツはジェノア会議において賠償金問題を取り上げるよう要請したが、フランスの反対により取り上げられなかった[13]。1922年後半にはインフレがさらに進行し、マルクの対ドルレートは、7月に1919年時点の117.5倍、12月には1807.8倍に達していた[14]。ドイツはこの状況では支払は不可能であるとし、残りの1922年分と1923年、1924年分の支払免除を求めた[14]。8月の連合国会議は支払い猶予については決定を延期するとしながらも、政府公債による支払を認めるなど、1922年中については事実上支払を免除した[14]。11月14日、ヴィルト内閣は総辞職したが、それとともに「賠償金・現物払いの3?4年免除」を求める覚書を提出し、ヴィルヘルム・クーノ内閣もその見解を継承し、改めて連合国に支払の2年猶予を求めた。しかし12月19日からのロンドン首脳会議においてポアンカレは、ドイツに対して「生産的担保」を求め、ドイツ案は不十分であるとした[15]。フランスも対英米の債務に苦しんでおり、賠償金支払いは不可欠であった。
占領開始葬儀の後、クルップの工場から墓地へ向かう犠牲者の棺(1923年4月10日)フランス軍の命令に従わなかったとして行われた鉄道労働者の大量追放により、ルール地方を離れる家族(1923年4月)

12月26日、連合国賠償委員会はドイツによる木材の現物賠償による引き渡し量の不足は、ドイツ政府の故意によるものであると認定した。この認定にはイギリスは反対し、1923年1月に開催されたパリ会議では賠償総額を500億マルクに減額するなど、支払の緩和政策を主張した[16]。しかしフランスはこれを拒絶し、会議は物別れとなった[16]。さらに1月9日の賠償委員会では石炭供与についても不履行があると認定した[15]グスタフ・シュトレーゼマンは、フランスが1922年に受け取れる現物賠償を、国内産業への配慮から故意に受領しなかったとして批判している[17]


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