ルーマニア革命_(1989年)
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ルーマニア革命 (1989年)

1989年12月のブクレシュティの様子。ホテルの割れた窓から撮影。

1989年12月15日 - 1989年12月25日
場所 ルーマニア社会主義共和国
ティミショアラアラドブクレシュティトゥルゴヴィシュテ
結果

ルーマニア社会主義共和国の崩壊

セクリターテの解散。その後、ルーマニアの諜報機関に編入

ニコラエ・チャウシェスク夫妻の処刑


衝突した勢力

ルーマニア政府

セクリターテ

ルーマニア人民軍

ルーマニア共産党

反体制派

反チャウシェスク

反共主義

1989年12月22日以降:

救国戦線評議会

ルーマニア人民軍

指揮官
ニコラエ・チャウシェスク  
エレナ・チャウシェスク   コンスタンティン・ダスカレスク(ロシア語版) エミール・ボブ(ロシア語版) ヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスク(ルーマニア語版) ヴァスィーレ・ミーラ  
ユリアン・ヴラード(ロシア語版)[1] トゥドール・ポステルニク(ロシア語版) 抗議者、労働者 救国戦線評議会
被害者数
死者1290人[2]負傷者3321人[3]

ルーマニア革命(ルーマニアかくめい、 Revolu?ia Roman? din 1989)は、1989年12月15日から12月25日にかけて、ルーマニア社会主義共和国で発生した一連の出来事を指す。

1965年3月にルーマニアの指導者となったニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceau?escu)は、前任者のゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorge Gheorghiu-dej)の方針を踏襲する形で、自国ルーマニアをソ連から独立させようとした。チャウシェスクによる指導のもと、外国の資本の参入を認め、国際金融機関から融資を受けたルーマニアは経済成長を見せ、農業国から工業国への転身を果たしたが、1970年代石油危機が契機となり、ルーマニアの抱える対外債務の額は飛躍的に増大した。1979年に石油価格と開発金融が急激に上昇すると、ルーマニアの産業におけるエネルギー効率の低さにより、債務水準が持続不可能になるほどの状況にまで追い込まれた[4]。対外債務を返済するため、チャウシェスクは農作物や工業製品の輸出量を増やすよう、政府に指示を出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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