ルーマニア正教会
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ルーマニア正教会
外壁・壁画イコンが特徴的なヴォロネツ修道院の光景。モルダヴィア北部の壁画教会群世界遺産
創設者使徒アンドレイ
独立教会の宣言1865年
独立教会の承認1885年コンスタンディヌーポリ総主教庁により)
現在の首座主教ダニエル
総主教庁所在地ブカレスト
主な管轄ルーマニア
国外の管轄アメリカ合衆国カナダほか
奉神礼の言語ルーマニア語
聖歌伝統ビザンティン聖歌
ポリフォニー聖歌
修正ユリウス暦
概算信徒数18,817,975人
公式ページ ⇒ルーマニア総主教庁公式サイト(ルーマニア語)
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ルーマニア正教会(ルーマニアせいきょうかい、ルーマニア語:Biserica Ortodox? Roman? 、英語:Romanian Orthodox Church)は、キリスト教正教会に属する独立教会の一つ。かつてはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあったが、19世紀末に独立教会となった。ルーマニアに住むルーマニア人の大多数を信者とする(2002年の統計によれば約2千万人)。現在、正教会において、信徒数第2位を誇る(1位はロシア正教会)。

正教会は一カ国に一つの教会組織を備えることが原則だが(ルーマニア正教会以外の例としてはギリシャ正教会ロシア正教会日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している[1]。正教会の教義や、全正教会に共通する特徴については「正教会」を参照
歴史

ルーマニア人正教徒の一部は、ルーマニア正教会がヨーロッパにおける最初の国規模の、正統な、かつ使徒によって建てられた教会であると信じる。この伝承によれば、ルーマニアの教会は聖アンデレによって創建された。

一方、歴史家はローマ帝国がキリスト教を現在のルーマニアにもたらしたと考えている。ローマの属州として、ルーマニアには当時のローマ帝国で信仰された宗教が、ミトラ教などを含め全て痕跡を残している。キリスト教はおそらくイリュリア軍団によってもたらされた。

ローマ帝国が、ドナウ川河口域の北側を領土として保つことが困難であると気付くにはそれほど時を要さなかった。ローマの軍隊が恒常的にこの地方に駐屯したのは106年から276年の間にのみとどまる。しかし短期間とはいえ、ローマの文化はこの土地に急速に浸透し、ダキア人は言語だけでなく宗教においてもローマ文化を接受し、キリスト教を信じるようになった。その結果、ある教父の証言によれば、このロマンス語を話す民族は「多すぎる代表」を第1ニカイア公会議に送り込むまでに至ったのである(Ante-Nicene Fathers, 1867, 1885)。

ルーマニア人が一つの民族として形成されたとき、彼らが既にキリスト教を信じていたことは明白である。これは伝承とともに考古学上・言語学上の証拠により裏付けられる。ルーマニア語における基本的なキリスト教用語はラテン語に由来する。たとえば教会 ("biseric?" < basilica) 、 ("Dumnezeu" < Domine Deus) 、復活祭 ("Pa?te" < Paschae) 、異教徒 ("P?gan" < Paganus) 、天使 ("Inger" < Angelus) などである。とりわけ、教会を意味するBiserica はルーマニア正教に固有のものである。

ルーマニア人の名前には、スラブ人の影響が入る以前のローマ教会からの影響が残っている。聖人の名前は全てラテン語の面影を残している。"Santămăria" (マリア)、"Sampietru" (聖ペトロ)、Sanmedru (聖デメトリウス)という具合である。"Sanziana"や"Cosanzeana"(聖なるディアナないし、いと聖なるディアナ)といったキリスト教以前の習慣を留める用語法は、この文脈では挿話としての意味しかもっていない。ルーマニア人の信仰の中には、キリスト教以前のダキア人の信仰の痕跡が残っている。霊的な場所としての山岳、宗教的な行列(十字行)、暦、また初期の教会の地理的な場所は、明らかにダキア人固有の信仰の中で有してたのと同じ意義を持っている。聖アンドレでさえ、ルーマニアでは「の使徒」として知られている。これは狼の頭がダキア人の戦意をかきたてる象徴であったという古く広がりのある文脈に置かれることができる。

4人の致命者の墓 - ルーマニア、Niculiţel
4人の致命者の墓に刻まれた文字 - ゾティコス、アッタロス、カマシス、フィリッポスの名

キリスト教と小スキュティア

ダキアがごく短い間ローマ帝国の一部であったのに対し、小スキュティア(今日のドブロジャ)がローマ帝国の一部であった期間は長かった。帝国が東西に分裂すると、小スキュティアは東ローマ帝国の一部となった。

小スキュティアが初めてキリスト教に接したのは、使徒アンデレペトロの弟)が1世紀に弟子たちと共にこの地を通過したときであったと伝承は伝える。後にキリスト教は小スキュティアで優勢な宗教となった。このことは多くの初期教会の遺構から証明される。ローマ帝国の行政官たちはキリスト教徒に過酷に望み、致命者が多く出た。

トミス304年3月7日に殺害された主教エフレムは、この地方における最初の致命者となった。以後、数多くの致命者が続いた。特にディオクレティアヌス帝、ガレリウス帝、リキニウス帝、ユリアヌス帝のときに致命者が多く出た。

この時代、多数の主教座や教会の致命者が試練にさらされた。知られている最初のダキア・ローマ人の司祭モンタヌスとその妻マクシマは、キリスト教信仰のため304年3月26日に溺死刑に処された。

1971年に行われた発掘調査で、Niculiţel(古代の小スキュティアのノヴィオドゥヌムの近く)の初期のキリスト教バシリカの下から、さらにそれより古い致命者記憶堂が発見された。ディオクレティアヌス帝の治下で304年から305年に致命したゾティコス、アッタロス、カマシス、フィリッポスのほか、デキウス帝(249年-251年)による迫害のときに死んださらに古い2人の致命者の不朽体(遺体)が地下室から出てきた。これらの致命者の名は教会にある記録から知られていたが、それらの名が内側に記された墓の発見は驚くべきことであった。

また、アタナリック(西ゴート族)の支配下で372年4月12日に川での溺死刑によって致命した著名な聖人ゴートの聖サヴァの不朽体が聖大バシレイオスによって取り戻されたということは、サヴァがアリウス派のような異端ではなく、第1ニカイア公会議で確定された信仰の側に身をおいていたことを示している。

ダキア生まれの皇帝ガレリウスが311年、ローマ帝国全土にキリスト教信仰の自由を布告すると、トミスの街(現在のコンスタンツァ)は他の14主教座とともに府主教座となった。
中世

東ローマ帝国コンスタンディヌーポリ総主教座ブルガリア帝国の間の複雑な関係の結果、ルーマニアでは教会スラブ語による奉神礼9世紀初めに行われるようになった。しかし、宗教文書の大半はスラブ語を理解しないか、または信徒が奉神礼文を理解することを望んだか、またはその両方であるようなルーマニア人の聖職者が学ぶものであった。何人かの聖職者たちは説教のときに、いくつかのスラブ語の接頭語を用いてもごもごと語った。そうすればスラブ語のように聞こえるというわけである。

ドナウ川南岸のダキアは"Vlahia Mare"「大ワラキア」として知られており、北岸は"Ungro-Vlahia"「ハンガリー・ワラキア」として知られていた。


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