ルーマニア国王
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1922年以降のルーマニア国王の紋章

ルーマニア人の王(ルーマニア語: Regele Romanilor[1])、ないしルーマニア国王(ルーマニア語: Regele Romaniei)は、1881年から共和制が宣言された1947年までの間、ルーマニア王国に君臨した君主の公的称号である。
目次

1 概史

2 歴代国王一覧

3 王位請求者

3.1 現時点の相続人たち


4 系図

5 脚注

6 関連項目

7 外部リンク

概史

オスマン帝国従属国であったワラキアモルダヴィアの両公位が1859年アレクサンドル・ヨアン・クザによって兼ねられ、1862年にルーマニア公ないしは支配者(英語版)となったクザによって統一されると、国はルーマニア連合公国と呼ばれた。1866年にクザは議会によって退位させられたが、この時に議会は連合公国の君主をドイツ諸侯に要請し、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家カロル1世が新たなルーマニア公となった。

オスマン帝国からのルーマニアの独立は1878年ベルリン会議で認められ、ルーマニアは1881年に主権のある王国となり、カロル1世は国王となった[2]

1927年フェルディナンド1世が崩御すると、息子カロルがいるにも関わらず、その子のミハイ1世(フェルディナンド1世の孫)が国王に据えられた。ミハイ1世の最初の統治は、しばしば愛人と西欧に安息の地を求めて国を留守にしていた父カロルの帰国と即位宣言により、わずか3年で終わりを迎えた。カロル2世は当初ルーマニアを統治することは望んではおらず、父フェルディナンド1世の前で、公的文書により自身の王位請求権を放棄したにもかかわらず、不満を抱く一部の政治派閥によって企てられた突然の「クーデター」の際、王位を請求するよう強要された。

カロル2世の10年にわたる統治は1940年に突然終わりを告げた。8月30日に発表されたドイツイタリアの仲裁による第二次ウィーン裁定で、トランシルヴァニアハンガリーに割譲せざるを得なくなったカロル2世の威信は急速に低下した。9月6日、イオン・アントネスクが主導したクーデターによりカロル2世は退位を強要され、装甲列車で国外退去した。カロル2世は最終的にポルトガルに落ち着き、愛人マグダ・ルペスク(英語版)と結婚した。その後「プレイボーイ王」がルーマニアに呼び戻されることはなかった。

復位したミハイ1世は憲法(英語版)への宣誓と議会の信任を抜いたことで、憲法に拠らない王として君臨した。2度目の即位から間もない1940年9月6日戴冠式の代わりに[3]ブカレスト総主教座大聖堂においてルーマニア正教会総主教ニコディム・ムンテアヌ(英語版)によって王として成聖された[4]。このように、ミハイ1世は聖なる権利による唯一の「神の恩寵下にある」[3]完全に非憲法的な王であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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