ルーベンス・バリチェロ
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はゴンサウヴェス、第二姓(父方の姓)はバリチェロです。

ルーベンス・バリチェロ
バリチェロ (2013年)
基本情報
フルネームルーベンス・ゴンサウヴェス・バリチェロ
略称表記BAR
国籍 ブラジル
出身地同・サンパウロ
生年月日 (1972-05-23) 1972年5月23日(51歳)
F1での経歴
活動時期1993-2011
過去の所属チーム'93-'96 ジョーダン
'97-'99 スチュワート
'00-'05 フェラーリ
'06-'08 ホンダ
'09 ブラウン
'10-'11 ウィリアムズ
出走回数326 (322スタート)
タイトル0
優勝回数11
表彰台(3位以内)回数68
通算獲得ポイント658
ポールポジション14
ファステストラップ17
初戦1993年南アフリカGP
初勝利2000年ドイツGP
最終勝利2009年イタリアGP
最終戦2011年ブラジルGP
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ルーベンス・ゴンサウヴェス・バリチェロ(Rubens Goncalves Barrichello, 1972年5月23日 - )は、ブラジルサンパウロ出身のレーシングドライバー。愛称は「小さなルーベンス」を意味するルビーニョ(Rubinho)。

F1で通算322戦に参戦。引退時点(2011年)では歴代最多記録であった[1](詳細は#参戦レース数についてを参照)。

F1において、当時の史上最年少でポールポジションを獲得する[2]など早くから実力を見せていた一方で、競争力の高い車にはなかなか恵まれなかったため、優勝は125戦目に初めて獲得しており、これは当時としては最も遅い記録であった[3]

名前のカタカナ表記については「フーベンス・ゴンサウヴェス・バヒケール」という表記が実際の発音に近いほか、姓について日本国内では「バリッケッロ」「バリッチェロ」「バリチェッロ」といった表記も多く見られるが、本記事では日本国内で一般的な「ルーベンス・バリチェロ」の表記で統一する。
初期の経歴

1981年にカートを始め、1990年にヨーロッパに移るまで、強豪がしのぎを削る当時のブラジル選手権においてチャンピオンタイトル5回、ランキング2位3回、サンパウロ州選手権においてもチャンピオンタイトル5回、ランキング2位3回という圧倒的な成績を残し、早くから将来を嘱望された。

1989年にフォーミュラ・フォードのブラジル国内選手権に参戦し(年間ランキング4位)、1990年にはイギリスへと移り、同年にはフォーミュラ・オペル選手権を初年度でいきなり制した。

1991年にはイギリスF3へとステップアップ。デビッド・クルサードとの争いを制して、19歳にしてチャンピオンに輝いた。

この時点ですでにF1参戦の声がかかるようになったが、翌年は国際F3000にステップアップし、ルカ・バドエルアンドレア・モンテルミーニに次ぐランキング3位の記録を残した。

この年のうちにジョーダン・グランプリと契約を結び、翌年のF1ステップアップを決めた。
F1での経歴
ジョーダン1993年イギリスGP
1993年
弱冠20歳でジョーダンからF1デビューした。マシンの戦闘力に欠け、さらに資金不足もあり次々とチームメイトが入れ替わるなどチーム体制が安定せず、ポイント獲得こそ終盤の日本GPにおける5位入賞1回のみにとどまったが、シーズン通してイヴァン・カペリティエリー・ブーツェンといったベテランも含め、チームメイトたちを着実に凌駕。特に目まぐるしい天候変化の中で行われた第3戦ヨーロッパGPにおいては非力なマシンで一時2位を走行し、フランスGPでは予選8位を記録するなど、随所でその実力を見せて評価を高める。
1994年
開幕戦から入賞し、第2戦パシフィックGPで自身初の表彰台を獲得するが、次のサンマリノGPでは初日にコースアウトして縁石でジャンプし、タイヤバリアを越えて直接金網にクラッシュした。このアクシデントでバリチェロは鼻骨を骨折し同GPは欠場した。 第11戦ベルギーGPの予選では、ウェットからドライコンディションへの変化に上手く対応し、当時の最年少記録(22歳96日)かつチームおよび自身初のポールポジションを獲得した。シーズンを通じて予選ではトップ10の常連となったが、度重なるマシントラブルに見舞われたこともあり、シーズン中の完走は8回にとどまった。だが、表彰台以外にも5度の4位入賞を果たし、年間ランキングを6位で終えた。1995年イギリスGP
1995年
予選ではチームメイトのエディ・アーバインよりも後方グリッドからスタートすることが多かったが、カナダGPで2位表彰台に立ったのを最上位に、ドライバーズランキングではアーバインを上回った。
1996年
地元ブラジルGPで予選2位を獲得。この年は時の自己最多となる7度の入賞を果たすが、表彰台には届かなかった。このシーズン限りでジョーダンを去り、新興チームスチュワート・グランプリへ移籍した。
スチュワート1997年カナダGP
1997年
ナンバー1ドライバーとしてスチュワートから参戦。予選では第7戦カナダGPの3位など時折トップ10に入り、マシンとしてはそれなりの速さはあった。しかし、信頼性があまりにも低く完走率で下位チームに負けるほどであり、特に自身の完走は3回のみに留まった。それでも、第5戦モナコGPで2位表彰台を獲得し、チーム唯一のポイントを獲得した。
1998年
前年よりは信頼性の面では若干改善したものの、マシン性能の低さに苦しめられ、決勝は5位入賞2回のみにとどまった。
1999年
新開発のフォードエンジンを搭載し、マシンの戦闘力が大幅に向上。シーズンを通して上位争いを繰り広げる。地元の第2戦ブラジルGPでは序盤からトップを快走し観客を熱狂させるがエンジンブローでした涙をのんだ。第7戦フランスGPではチーム初、自身2度目のポールポジションを獲得。予選では16戦中14戦でシングルグリッドを記録し、決勝では3位表彰台3回を含む入賞計7回を記録し、エースとして実力を見せるも、チーム初優勝は第14戦のヨーロッパGPでジョニー・ハーバートが記録した。チームは2000年からはジャガー・レーシングとして参戦することが決定していたが、後述のとおり、自身はエディ・アーバインとのトレードでフェラーリへ移籍した。
フェラーリ
2000年
F1デビューから1999年までの7年間、年間ランキングではチームメイトのカペリ、ブーツェン、マルコ・アピチェラエマニュエル・ナスペッティ、アーバイン、アンドレア・デ・チェザリス鈴木亜久里マーティン・ブランドルヤン・マグヌッセンヨス・フェルスタッペン、ハーバートに対して一度も遅れを取ることは無かった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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