ループもの
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ループものは、タイムトラベルを題材としたSFのサブジャンルで、物語の中で登場人物が同じ期間を何度も繰り返すような設定を持つ作品のこと[1]。いわゆる「時間もの」の一種。昔からある物語の類型のひとつだが[2][3]日本サブカルチャージュブナイルもの[4]では頻出する設定であり、半永久的に反復される時間から何らかの方法で脱出することが物語の目標となるものが多い[5]
概要

過去の自分に戻って人生を再挑戦するという類型の物語が一つのサブジャンルとして確立したのは、ケン・グリムウッドの小説『リプレイ』(1987年発表)が世界的なヒット作となって以降であるが[2]、類似する筋立ての作品は『リプレイ』以前にも日本を含む各国の作品に散見される[2]

複数回のループが行われるわけではないものの、自分の人生の過去に戻って別の世界を疑似体験するというアイディアは1946年公開のアメリカ映画『素晴らしき哉、人生!』ですでにみられ[6]1965年発表の筒井康隆の小説「しゃっくり」ではループ期間が10分間と短いものの世界が一定期間を反復し続ける設定がなされている[7]。また、藤子・F・不二雄1991年の漫画『未来の想い出』の冒頭で、「若返って人生をやり直す」という題材自体はゲーテ19世紀に発表した『ファウスト』以来、使い古されたものであることを登場人物に指摘させている。

評論家の浅羽通明は「ループもの」の発生過程について、近代以前には抽象的であった時間の概念が、機械式の時計の普及やテレビ番組の定時放送によって計測可能な概念として意識されるようになるにつれて、それ以前からあった物語の類型に時間の要素が結びついて発生したのではないかと考察している[8]

一般的なタイムトラベル作品、つまり物理的なタイムトラベルにおける過去への時間跳躍では、自分の肉体ごと過去の世界に移動することになるため、過去の自分に遭遇することもありうる[9]。例えば映画バック・トゥ・ザ・フューチャー』がそうであるように、そのことによるタイムパラドックスが作品のテーマのひとつとして扱われる作品も多い。他方、『リプレイ』のように自分の意識が過去の自分に戻る(または世界全体が過去のある時点に戻る)と設定されている作品では自分自身との遭遇は起こらず、(時間跳躍している人物の視点から考えれば)過去改変に伴うタイムパラドックス(親殺しのパラドックスなど)が発生しないことになる[10][注 1]。もうひとつの相違点として、現在から過去への時間跳躍は発生するが、過去から現在への時間跳躍は発生しない(通常の時間経過によって過去から現在に至ることになる)という点がある[12]

肉体の移動を伴わずに過去への一方通行的な時間遡行を繰り返すという意味でのループものとは厳密には異なるが、意識を過去に遡行させて歴史を改変することを繰り返し自分の望む現実を確定させようとするタイプの物語として映画『バタフライ・エフェクト』やドラマ『プロポーズ大作戦』がある[13]。また、意識が過去の自分に一方的に移動するのではなく、一時的に未来に移動すると設定されているもの(小説『フラッシュフォワード』)もある[14]
日本のサブカルチャーにおけるループもの
1960年代
日本の文学におけるループものとして最も有名なものとして、1967年に発表された
筒井康隆による小説『時をかける少女』が挙げられる。タイムリープ能力を得た主人公の少女が、時間遡行を何度か繰り返すことで「身の回りに起こる不可思議な事件」を解決していく。その後、未来から来た少年と出会い、両思いになるも少年は未来へと帰り、記憶を消された少女はいつか出会うはずの誰かを待ち続ける……という、サスペンス要素や青春、ラブロマンスを交えて描いたSF小説である。本作はその後、幾度かのテレビドラマ化、映画化された後、主人公を別にしたストーリーでアニメ映画化されるなど、9回にわたって映像化がなされ、「ループ物」を説明される際には欠かすことができない作品と言える。
1980年代
日本のサブカルチャーにおけるループものの先駆的[15]・古典的[16]な作品として1984年公開の劇場アニメうる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が挙げられる。この作品以降、オタク文化ではループものの作品が多数制作され、それらはしばしばオタク自身の姿を写したものとして論じられる[17]。オタクはしばしば漫画アニメといったコンテンツを一方的に消費するだけでなくそれらを元にした二次創作作品(同人誌MADムービーなど)を発表しているが、そのような行為自体が原作となる物語を反復しているともいえる[18]批評家東浩紀は、ループものがオタク文化で特に好まれている理由として、成熟拒否的で幼児性に固執しがちと論じられるオタクにとっては同一期間を反復して過ごし続けるループものの主人公は感情移入しやすい存在なのかもしれない、と推測している[15]社会学者大澤真幸は、反復に対して終わりを告げるということは偶有性(: endekomenon. 他でもありえたかもしれないという感覚)を必然性(こうでしかありえなかったという感覚)に置換するという「第三者の審級」[注 2]を確認する操作にあたるとした上で、ループものの作品が大量に制作され好まれているという事実は現代社会において決着をつけることに困難を覚えるということ、つまり「第三者の審級」の撤退を示唆しているのではないかと述べている[23]
1990年代
ループものの作品は、セカイ系と呼ばれる一群の作品と親和性を持つ。セカイ系とは1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン[注 3]をきっかけとしてオタク文化を中心とした広範囲で発生した作品群で、非主体的な主人公の自意識の吐露が繰り返され、主人公とヒロインの関係性(近景)がそのまま世界規模の大問題(遠景)に直結して描かれるという特徴がある。セカイ系作品にしばしばループ構造が導入されている理由(あるいはループものがセカイ系として論じられる理由)としては、ループものの作品ではループからの脱出の鍵として主人公とヒロインの恋愛感情のような個人的な関係性が設定されていることが多くそれがセカイ系の構造(近景と遠景の直結)と一致すること、そしてしばしば世界がループしていることを自覚しているのは主人公だけであると設定されているため[注 4]必然的に心情・自意識の吐露が激しくなることが挙げられる[27]。現実感覚を喪失した世界をシステム面で描くとループものに、シナリオ面で描くとセカイ系になると対比することもできる[28]
2000年代
2000年代に入ると、セカイ系の影響を受けながらライトノベル美少女ゲームの分野にループ構造を備えた作品が散見されるようになる[15]。東浩紀は、そういった作品においては単なるSF的ガジェットとしてループ構造が導入されているだけではなく、それが「ゲームの比喩」としてのメタフィクショナルな面を持っていることを指摘し、それを(作家・評論家大塚英志が提示した「自然主義リアリズム/まんが・アニメ的リアリズム[注 5]」を意識して)「ゲーム的リアリズム」として論じた。コンピュータゲームの中でも特にアクションゲームシューティングゲームなどでは、プレイヤーはゲーム内での主人公(あるいは自機)を操作し、敵に倒されたりトラップにひっかかったりしてミスをしたらあらためてやりなおし(リセット可能な死)、その試行錯誤を経て少しずつ先に進んでいくという醍醐味があるが[注 6]、このような発想と類似した「失敗(死)を繰り返しながらループからの脱出を目指す」という設定がゼロ年代のループものの作品には取り入れられている場合が多い(後述の『All You Need Is Kill』『ひぐらしのなく頃に』のほかアニメ映画『時をかける少女[30]など)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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