ルートヴィヒ・ティールシュ
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ルートヴィヒ・ティールシュ
Ludwig Thiersch
自画像
誕生日1825年4月12日
出生地 バイエルン王国ミュンヘン
死没年1909年5月10日
死没地 ドイツ帝国
バイエルン王国、ミュンヘン
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ルートヴィヒ・ティールシュ(Ludwig Thiersch、1825年4月12日 - 1909年5月10日[1])はドイツの画家である。
略歴

ミュンヘンで生まれた。父親はミュンヘン大学の古典学の教授、フリードリヒ・ティールシュ(Friedrich Thiersch: 1784?1860)で、兄に有名な外科医、カール・ティールシュ(Carl Thiersch: 1822-1895)がいる。ミュンヘン美術院に入学し、はじめルートヴィヒ・シュヴァンターラーに彫刻を学ぶが、数年後、絵画に転じ、ハインリヒ・マリア・フォン・ヘスユリウス・シュノル・フォン・カロルスフェルト、カール・ショルンらに学んだ。1849年から3年間、ローマに旅し、イタリアの人々の生活や、友人たちの肖像画を描いた[1]

1852年の秋、父親とギリシャのアテネに旅し、アテネには3年間滞在した。アテネの美術学校で教師を務め、ギリシャ美術を研究し、いくつかの新しい教会の壁画を描いた。この時期教えた学生には、ニキフォロス・リトラスらがいる[2]。ミュンヘンに戻った後も各地の教会の壁画を描き、イポリット・フランドラン(1809-1864)やルドヴィコ・ザイツ(Ludovico Seitz:1844-1908)とともに近代における教会芸術の再興に貢献した[3]

1856年に古代ギリシャ建築のデザインを近代建築に取り入れた建築家、テオフィル・ハンセンとウィーンのギリシャ正教会の再建の仕事をし、カール・ラールと壁画を描いた。[4]その後、ギリシャ系のオーストリアの銀行家、シモン・シナスがパトロンとなってローマで多くの宗教画を描いた[1]

1860年にサンクトペテルブルクに移り、ロシア大公のニコライミハイル・ニコラエヴィチといったロシア皇族のために働いた[1][3]。ドイツに戻った後もケンプテンの教会のための壁画を描いた。パリやロンドンのギリシャ正教の教会の装飾画も描いた。
作品

ティールシュが装飾したとされるパリのギリシャ正教会内部

アテネのアラリック(c.1879)

"Unergrundlichkeit"(1874)


Kleoniki Gennadiou-ギリシャの芸術家(1856/1859)



父親、フリードリヒ・ティールシュ(1877)

ニコラオス・ギジス-画家(1865)

脚注^ a b c d "Thiersch", Meyers Konversations-Lexikon


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