ドイツ国の政治家ルートヴィヒ・グラーフ・シュヴェリン・フォン・クロージクLudwig Graf Schwerin von Krosigk
フォン・クロージクの肖像写真 (1932年)
生年月日1887年8月22日
出生地 ドイツ
プロイセン王国
ザクセン県
軍歴
所属組織
ドイツ帝国陸軍
プロイセン王国陸軍
軍歴1914年 (?) - 1919年
最終階級 陸軍中尉
除隊後大蔵官僚、政治家
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“ルッツ”ヨハン・ ルートヴィヒ・グラーフ・シュヴェリン・フォン・クロージク(ドイツ語: Johann Ludwig "Lutz" Graf Schwerin von Krosigk 発音[ヘルプ/ファイル]、1887年8月22日 - 1977年3月4日)は、ドイツの貴族、大蔵官僚、政治家。事実上ドイツ国最後の首相を務めた。
ルートヴィヒ・フォン・クロージクは無党派の保守派で、1932年にフランツ・フォン・パーペンによって財務大臣に任命された。パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の要請で、クルト・フォン・シュライヒャー、アドルフ・ヒトラーの内閣においても財務相を務めた。ヒトラー内閣の財務相時代にはユダヤ人を社会から排除する法律に携わった。1945年5月、ヒトラーとその後継首相となったヨーゼフ・ゲッベルスが自殺した後成立したカール・デーニッツのフレンスブルク政府で「首相代行」を務めた。その他にも、臨時政府で外務大臣と財務大臣という実質的に名目上の役職も務めた。
1949年のニュルンベルク継続裁判の大臣裁判にかけられ、戦犯容疑で、禁固10年の判決を受けたが、1951年に減刑され釈放された。
経歴
生い立ち(ドイツ語版)のラートマンスドルフ(現ザクセン=アンハルト州シュタースフルト(ドイツ語版)に生まれる。父エーリッヒ・アドルフ・ヴィルヘルムの家系はアンハルトの旧貴族クロージク家(ドイツ語版)だが無位無冠の家柄であり、母ルイーゼ・ロザリー・フリーデリケ・ユリエ・エマ・ルドミラの家系はメクレンブルクとポンメルンの貴族シュヴェリン家(ドイツ語版)であった[1]。
1893年からロスレーベン(ドイツ語版)の修道院学校(ドイツ語版)に通う[1]。アビトゥーア合格後の1905年からハレ大学、ローザンヌ大学、オックスフォード大学で法学と政治学を学ぶ[1][2]。1909年から第一次公務員試験に合格し、ナウムブルクでプロイセン王国公務員の修習生として務めた[1]。