ルーシー・モード・モンゴメリ
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ルーシー・モード・モンゴメリ
Lucy Maud Montgomery
ルーシー・モード・モンゴメリ、1935年
誕生ルーシー・モード・モンゴメリ
(1874-11-30) 1874年11月30日
カナダプリンスエドワード島
死没 (1942-04-24) 1942年4月24日(67歳没)
カナダオンタリオ州トロント
墓地 カナダプリンスエドワード島
職業小説家
国籍 カナダ
活動期間1891年 - 1939年
ジャンル児童文学
代表作『赤毛のアン
ウィキポータル 文学
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8歳当時23歳当時作者ルーシー・M・モンゴメリの墓(プリンスエドワード島

ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery、1874年11月30日 - 1942年4月24日)は、カナダ小説家である。『赤毛のアン』の作者であり、本作を第一作とする連作シリーズ「アン・ブックス」で良く知られている。国際的に親しまれる英系カナダ文学の草分け的人物であり、日本で訳書が出版された最初のカナダ文学者でもある[1][2]
生涯

ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月30日[3]に、カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)で生まれた。スコットランド系とイングランド系の祖先を持つ[4]。父方の祖父は、上院議員[4]

モンゴメリが生後21か月(1歳9か月)のとき、母クララ・ウールナー・マクニール・モンゴメリが結核で亡くなると、父ヒュー・ジョン・モンゴメリはカナダ西部へ移住したため、モンゴメリはキャベンディッシュの農場に暮らす母方の祖父母、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールに厳しく育てられた。マクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育った[4]。しかし、一部の叔母たちを除いて、保守的な祖父、口うるさく支配的な祖母、モンゴメリの欠点をあげつらう親族のことは嫌っていた[4][5]

1890年(15歳のころ)には父と継母と暮らすため、サスカチュワン州プリンス・アルバートに送られたが、1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻っている。11歳しか年の違わない継母からは子守りと家事手伝いを命じられ、勉強をしたいという夢を打ち砕かれるが、この時期に書いた詩やエッセイが新聞に掲載され、作家を目指すきっかけとなった[4]

1893年。キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ(現在のホーランド・カレッジ)へ進学した。2年分の科目を1年で終え、1894年に一級教員の資格を取得した。1895年から1896年にかけてノバスコシア州の州都ハリファックスダルハウジー大学で聴講生として文学を学んだ。

島にあるさまざまな学校で教師を務めたあと、1898年に祖父を亡くし、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻った。祖父は地元の郵便局長も務めていたため、死後その仕事をモンゴメリが引き継いだ[4]1901年1902年の短期間、ハリファックスで新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として[5]勤め、1902年に祖母の世話をするため、再びキャベンディッシュに戻った。ちょうどこの頃、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編を書く気になったという。気難しい祖母との辛い暮らしの中、相談相手となってくれた[5]長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと1906年に婚約。1908年最初の長編小説『赤毛のアン』を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収める。ユーアン・マクドナルドとは祖母が亡くなった直後、モンゴメリ36歳の1911年7月11日に結婚し、英国・スコットランドへの新婚旅行の後、オンタリオ州リースクデール(現ダラム地域アクスブリッジ )に移り住んだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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