ルーサー・ヴァンドロス
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ルーサー・ヴァンドロス
Luther Vandross
ルーサー・ヴァンドロス(左)。ダイアナ・ロス(右)と(2000年)
基本情報
出生名Luther Ronzoni Vandross
別名The Boss
生誕1951年4月20日
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨークマンハッタン
死没 (2005-07-01) 2005年7月1日(54歳没)
ジャンルR&B
職業シンガーソングライター
活動期間1968年 - 2005年
レーベルCotillion
Epic
Virgin
J
共同作業者マーヴィン・ゲイ
スティーヴィー・ワンダー
チェンジ
シック
リチャード・マークス
マライア・キャリー ほか
公式サイト ⇒LUTHERVANDROSS.com

ルーサー・ヴァンドロス(Luther Vandross、1951年4月20日 - 2005年7月1日)は、アメリカ合衆国R&B歌手である。バックアップボーカルでの活動が評判となり、ゲストとしてチェンジ等のアルバムの一部でメインボーカルを担当し、1976年にソロデビューにたどり着いた。1980年代のいわゆるブラコン(ブラック・コンテンポラリー)の第一人者のひとりであり、歌手としてだけではなく、サウンドクリエイターとしても知られる。

2003年脳卒中に倒れ、その後、復帰したものの2005年に亡くなった。54歳だった。

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第54位[1]
経歴
1951年 - 1979年 : 若年期から下積み時代

ルーサー・ヴァンドロスこと本名Luther Ronzoni Vandross は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンで、4人兄弟の2人目の子供として生まれた[2][3]

マンハッタンのローワー・イースト・サイドにあるアルフレッド・E・スミス知事ハウス[4]で幼少期を過ごし、3歳からピアノの演奏を始めた。13歳のとき、家族とブロンクス区へ引っ越した。ルーサー・ヴァンドロスの姉であるパトリシア・ヴァンドロスは、ボーカル・グループのクレスツに所属していた 1958年には、楽曲ビルボード・ホット100で 2位となるヒット曲「16 Candles」をだしている。ヴァンドロスが 8歳のとき、父親が病死した。[5]ヴァンドロスは、高校生グループ Shades of Jade のメンバーとして一度ハーレムアポロ・シアターでも演奏した。ヴァンドロスは、シアター・ワークショップにも所属して、シングル「Only Love Can Make a Better World」と「Listen My Brother」を発表し、1969年11月のセサミストリートに出演した。

ヴァンドロスが次のヒットにクレジットされるのは、1972年のロバータ・フラックのアルバムである。また、パティ・ラベル・ファンクラブの創設者でもある。デロアス・ホールの 1973年のアルバムで、ヴァンドロスは自身が書いた曲「Who's Gonna Make It Easier for Me」を歌っている。他に、楽曲「In This Lonely Hour」も提供している。デヴィッド・ボウイと共作した楽曲「ファスシネイション」(Fascination) は、1974年9月に発表されたボウイのアルバム『ヤング・アメリカンズ』に収録され、ヴァンドロスもバック・ボーカルとして参加している。ヴァンドロスが書いた曲「Everybody Rejoice」は、1975年のブロードウェイ・ミュージカル『ザ・ウィズ』と、その映画化『ウィズ』で聞くことができる。

ヴァンドロスは、ダイアナ・ロスロバータ・フラックゲイリー・グリッターカーリー・サイモンチャカ・カーントッド・ラングレンユートピアドナ・サマーベット・ミドラーシックバーブラ・ストライサンドデヴィッド・ボウイらのバック・ボーカルを務めた。

70年代後半、ヴァンドロスは 5人組グループであるルーサーのメンバーとして、Cotillion Records[6]と契約し、比較的成功したシングル「It's Good for the Soul」、「Funky Music (Is a Part of Me)」、「The Second Time Around」と、アルバム『Luther』(1976年)、『This Close to You』(1977年)を発表したが、アルバムはセールス・チャートに入るほどは売れなかった。Cotillion Records がグループとの契約を切った後、ヴァンドロスはアルバムの版権を買い戻した。

ヴァンドロスは 1970年代後半から 1980年代前半までに、立て続けにヒット・シングルに貢献し、1970年代後半には人気セッション・シンガーとしての地位を築いた。

Greg Diamond's Bionic Boogie というディスコ・バンドの曲「Hot Butterfly」で、ルーサーはリード・ボーカルを歌った。ルーサーは、Soiree というバンドでも「You Are the Sunshine of My Life」のリード・ボーカルを歌い、ジャクソン・ブラウンやシャロン・レッドのアルバムでバック・ボーカルを務めた。ルーサーがリード・ボーカルを歌った Mascara LP というグループの曲「See You in L.A.」は、1979年に発表された。
1980年 - 2003年 : 成功期

長い下積み時代が続くルーサー・ヴァンドロスは、フランス系イタリア人プロデューサーのジャック・フレッド・ペトラスが生んだポップ・ダンス・アクトのチェンジに、歌手として迎えられた。1980年のヒット「A Lover's Holiday」と「The Glow of Love」、「Searching」でヴァンドロスはボーカルを務めた。ヴァンドロスは「The Glow of Love」を気に入っていて、後の 2001年に Vibe Magazine から受けたインタビューでは「私がこれまで人生において歌った中で、もっとも美しい曲」と語っている。ヴァンドロスは、チェンジの 1981年のアルバム『Miracles』も当初は参加予定だったが、金銭面でペトラスと折り合いがつかず、参加しなかった。ヴァンドロスのその判断は同年のエピック・レコードとの契約につながったが、『Miracles』やペトラスの新しいダンス・アクト The B. B. & Q. band にもバック・ボーカルとしては参加した。その忙しい同じ年、ソロとしてはデビュー・アルバムとなる『Never Too Much』を発表した。ヴァンドロス自身が書いた曲「Never Too Much」は、R&B チャートで 1位を記録した[7]。またバート・バカラックハル・デヴィッド作のバラード「A House Is Not a Home」(オリジナルはディオンヌ・ワーウィック)もヒットした。この頃より、ベーシストのマーカス・ミラーと共同制作するようになり、ミラーはヴァンドロスの数多くの作品でプロデュースを務めた。『Never Too Much』は、ヴァンドロスの高校時代のクラスメイトであるナット・アダレイ・ジュニアがアレンジを行った[8]

1980年代にヴァンドロスは成功した R&B アルバムを発表し続けながら、1982年の Charme というグループにゲスト・ボーカルとして参加するなどの、セッション・ミュージシャンとしての仕事を続けた。ヴァンドロスの初期のアルバムのほとんどは、ポップ・チャートよりも、R&B チャートで大きなヒットとなった。ヴァンドロスは 1980年代に 2曲のビルボード R&B チャートでのナンバー 1 ヒットを発表していて、1986年の「Stop to Love」と、グレゴリー・ハインズとのデュエットの「There's Nothing Better Than Love」である[9]。ヴァンドロスは、アレサ・フランクリンのゴールド・ディスクであるアルバム『Jump to It』のプロデューサーを務めた。そして、次作となる 1983年の『Get It Right』のプロデューサーも務めたが、期待はずれに終わった。1983年には、ディオンヌ・ワーウィックのアルバム『How Many Times Can We Say Goodbye』のプロデュースも務め、デュエットで参加したタイトル曲はホット 100で 27位(R&B チャートで 7位、アダルト・コンテンポラリで 4位)を記録した[10][7]

1985年、ルーサー・ヴァンドロスはテレビ番組『スター・サーチ』で、出場者のジミー・サルベミーニ(Jimmy Salvemini)の才能に目をつけた。ヴァンドロスは、サルベミーニのアルバムを制作した。アルバムが完成した直後である 1986年1月12日、ヴァンドロスの運転する車に、ジミー・サルベミーニと兄のラリーが乗っている状態で衝突事故が発生した。事故により、ラリー・サルベミーニは亡くなり、ヴァンドロスとジミー・サルベミーニは生き残った。サルベミーニ家はヴァンドロスに対して訴訟を起こし、結果的に 70万ドルをヴァンドロスがサルベミーニ家へ支払うことで示談となった。サルベミーニのアルバム『Roll With It』は、翌年発売された。

1989年のコンピレーション・アルバム『The Best of Luther Vandross... The Best of Love』に収録されたバラード「Here and Now」は、ビルボード・ポップ・チャートで初めてのトップ 10 ヒットとなり、最高 6位まで上昇した[7]。そして、第33回グラミー賞で最優秀男性 R&B 歌唱賞を受賞し、初めてのグラミー賞受賞となった[7]

1990年代に発表したアルバム達は、立て続けに成功した。まず、1991年に発表したアルバム『Power of Love』は、ポップ・チャートでトップ 10 ヒットを 2曲生み出し、「Power of Love/Love Power」が第34回グラミー賞で最優秀男性 R&B 楽曲賞を受賞した[7]。1992年の映画『モー・マネー』で使われたジャネット・ジャクソンとのデュエット曲「The Best Things in Life Are Free」は、ポップ・チャートでトップ 10 ヒットとなった[7]

1993年にはロバート・タウンゼンドの映画『スーパーヒーロー・メテオマン』で、殺し屋の役を演じた。11月に発売されたフランク・シナトラのアルバム『Duets』で「The Lady Is a Tramp」をデュエットした。

1994年に発表したマライア・キャリーとのデュエット曲「エンドレス・ラブ」(ライオネル・リッチーダイアナ・ロスのカバー)では、またトップ 10 ヒットとなった[7]。なお、ヴァンドロスは 1981年から 1994年までの間、毎年 R&B チャートでトップ 10 ヒットを記録している。1997年には、3回目のグラミー賞獲得となる第39回グラミー賞の最優秀男性 R&B 歌唱賞を「Your Secret Love」で受賞した[7]

2回目のグレイテスト・ヒッツ・アルバムを 1997年に発表した後、エピック・レコードからヴァージン・レコードへ移り『I Know』を発表した。しかしセールス面では失敗に終わった(彼のオリジナルアルバムとしては唯一プラチナディスク(全米セールス100万枚以上)を逃し、またBillboard R&Bチャートでトップ3を逃したのも唯一である)。この1枚のみでヴァージンとの契約を解消。クライヴ・デイヴィスのレーベルである J Records と契約し、2001年に『Luther Vandross』を発表した。

また、マイケル・ジャクソンとも親交が深く、2001年9月10日に行われた「マイケルジャクソン30周年記念コンサート」に出演し、アッシャー、98°と共に「Man In The Mirror」を披露した。しかし、その翌日、アメリカ同時多発テロ事件が起き、それに衝撃を受けたマイケルはチャリティーソングとして「What More Can I Give」を企画し、マライア・キャリーセリーヌ・ディオンジャスティン・ティンバーレイクグロリア・エステファンといった大物アーティストと共に参加した。

2003年に、ヴァンドロスはアルバム『Dance With My Father』を発表した。そのタイトル曲は、亡き父との幼い頃にダンスした思い出がテーマになっているもので、共作者のリチャード・マークスとともに、第46回グラミー賞最優秀楽曲賞を受賞した[7]。また、この曲は同時に 4回目となる最優秀男性 R&B 歌唱賞を受賞した。アルバムは、Billboard 200(総合アルバムチャート)で初めてとなる 1位を記録した[7]。グラミー賞で初の最優秀R&Bアルバム賞に輝き、またビヨンセとのデュエット「The Closer I Get to You」(ダニー・ハサウェイ&ロバータ・フラックのカバー)も最優秀R&Bデュオ/グループ賞を受賞した。


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