ルブリン合同(ルブリンごうどう)、もしくはルブリン連合(ルブリンれんごう、リトアニア語: Liublino unija; ポーランド語: Unia lubelska)は、1569年7月1日に成立した制度的同君連合である。これにより、ポーランド王国とリトアニア大公国はポーランド・リトアニア共和国に統合された。
実質的には、ポーランドによるリトアニアの併合であり、ポーランド・リトアニア共和国は、選挙された一人の君主(ポーランド王・リトアニア大公)・元老院・合同議会(Sejm)によって統治されることとなった。これは、リトアニア大公国がモスクワ・ロシアとの戦争(リヴォニア戦争を参照)によって危険な状態にあったことが原因だった。ヤン・マテイコの手になる『ルブリン合同』。合同300周年にあたる1869年に完成した。中央で十字架を掲げているのは国王ジグムント2世アウグスト、その横で調印文書を抱え右手を聖書に置いて跪く黒服の人物は合同推進派のヤクプ・ウハンスキ、その後ろに立つ白い服の人物がマルチン・ズボロフスキ、ウハンスキの隣でサーベルを握って跪く赤毛の人物はミコワイ・ラジヴィウ・ルディ公爵、左の方で緋色の僧服を纏って椅子に座る聖職者はスタニスワフ・ホジュシュ枢機卿、画面右端で農民の手を引いている白髭の人物は政治思想家アンジェイ・フリチュ・モジェフスキ。ここでやや場違いに登場している農民は、未来のポーランドを象徴している。
ルブリン合同に対する見方は歴史家によって異なる。ポーランドの歴史家は平和的・自発的な手続きや、制度的な信教の自由、多民族による多文化主義、多くの政治参加者による議会制民主主義などといった(当時の)ポーランドの自由主義とコスモポリタニズムの文化とその理念が広まったこと、など正の側面を強調する。リトアニアの歴史家は、より民族主義的・国粋主義的な立場を採り、リトアニア貴族とポーランド貴族の参政権は平等であったにもかかわらず、リトアニア大公国において文化のポーランド化が進んだことから、ポーランドによる支配であると主張する。また、連合国の農民は、その他の地域(リトアニアの敵国モスクワ・ロシアなど)よりも自由を手にすることになったと指摘する歴史家もいる。実際に、一部の農民はモスクワ・ロシアから逃げて来ている[1]。 法的見地からすると、合同によってリトアニアのマグナート(大貴族)は、地位の低い多数のポーランド貴族と同格となってしまうため、条約が調印されるまで長い論争があった。しかし、リトアニアはモスクワ大公国との戦争 1567年1月、ポーランドのルブリンで議会(セイム、Sejm)が開かれたが、合意には至らなかった。合同締結へのポーランド人の強い圧力に抗議して、ヴィリニュス県知事ミコワイ・ラジヴィウ・ルディに率いられたリトアニア人はルブリンを3月1日に離れた。彼らは、ジグムント2世アウグストが決断することを恐れていた。 3月26日にジグムント2世は、リトアニア人が支配する南部の土地であるポドラシェ
歴史
背景
1567年の議会(セイム)