ルビー・ラフーン
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ルビー・ラフーン
Ruby Laffoon


第43代 ケンタッキー州知事
任期
1931年12月8日 ? 1935年12月10日
副知事A・B・"ハッピー"・チャンドラー
前任者フレム・サンプソン
後任者A・B・"ハッピー"・チャンドラー

個人情報
生誕 (1869-01-15) 1869年1月15日
ケンタッキー州マディソンビル
死没1941年3月1日(1941-03-01)(72歳)
ケンタッキー州マディソンビル
政党民主党
配偶者メアリー・"メイ"・ブライアント・ニスベット
親戚ポーク・ラフーンの甥
出身校ワシントン・アンド・リー大学法学校
専業弁護士
宗教ディサイプルス・オブ・クライスト

ルビー・ラフーン(: Ruby Laffoon、1869年1月15日 - 1941年3月1日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士。1931年から1935年まで、第43代ケンタッキー州知事を務めた。17歳の時に叔父のアメリカ合衆国下院議員ポーク・ラフーンと共に住むためにワシントンD.C.に移転した。政治に関する興味を増してケンタッキー州に戻り、郡や州のレベルで選挙に勝ったり負けたりした。1931年、民主党予備選挙ではなく、指名大会でその州知事候補に選ばれ、1903年以降では指名大会で選ばれた唯一の民主党知事候補となった。選挙では共和党の対抗馬ウィリアム・B・ハリソンを、ケンタッキー州知事選挙始まって以来の大差で破った。

ラフーンは「マディソンビルの恐ろしい腕白坊主」とあだ名され[1]世界恐慌の経済的困難さに直面することになった。州財務省への歳入を上げるために、州初の消費税法制化を提唱した。この問題が州知事としての任期の大半を占有し州民主党やラフーン自身の内閣を分裂させた。副知事のA・B・"ハッピー"・チャンドラーが州議会で税に対する戦いを主導した。州議会の2つの通常会期と特別会期合計3回で税法案が否決された後、ラフーンは1934年の特別会期で税法案を通すために、共和党と二党間の連衡を固めた。

ラフーンとチャンドラー副知事の確執はラフーンの任期を通して続き、1935年の州知事選挙に影響した。当時の副知事は州知事とは独立した選挙で選ばれていた。ケンタッキー州憲法の規定で再選を求められないラフーンは、その後継者として政治ボスのトム・レイを支持し、民主党には再度指名大会で州知事候補を選ぶよう説得した。このことでラフーンが後継者を選ぶ可能性を大きく高めた。ラフーンがワシントンD.C.を訪れている間に、ケンタッキー州憲法の条項に従い、チャンドラーが知事代行を務めた。チャンドラーは州議会の特別会期を招集して、予備選挙を義務付ける法案を検討させた。ラフーンは急ぎケンタッキーに戻り、会期招集を無効化しようとしたが、ケンタッキー州控訴裁判所がその会期を合憲だと判断し、予備選挙法が成立した。チャンドラーが予備選挙でレイを破り、ラフーンの跡を継いで州知事になった。ラフーンは州知事の任期が明けた後に、故郷のマディソンビルに戻り、1941年に脳卒中で死んだ。その知事としての遺産の中に、ケンタッキー・カーネル(名誉大佐)を発行した数が記録となっており、その指名された者の中には、ケンタッキーフライドチキンをチェーン展開したハーランド・サンダース(カーネル・サンダース)がいた。
初期の経歴

ルビー・ラフーンは1869年1月15日、ケンタッキー州マディソンビルにあった丸太小屋で生まれた[2]。父はジョン・ブレッドソー・ラフーン・ジュニア、母はマーサ・ヘンリエッタ(旧姓アール)であり、その3番目の子供で、唯一の男の子だった[3]。ラフーンの伝記作者バーノン・ギプソンに拠れば、ラフーンの両親は新生児の名前を決められずに、数年間というもの「バッド」(子供)と呼んでいただけだった[4]。ラフーンが幼い頃に、たびたび訪れていたグロサリーストアの経営者ジョン・エドウィン・ルビーから、自分で「ルビー」という名前を選んだ[5]

ラフーン家は主に農家だったが、政治の世界にも多少の経験があった[6]。ルビー・ラフーンの祖父、ジョン・ブレッドソー・ラフーン・シニアは1815年にサウスカロライナ州からケンタッキー州に移って来て、ケンタッキー州下院議員を1期務めた[6]。ルビーの父、ジョン・ジュニアはホプキンス郡の副保安官を数期、郡評価官を1期務めた[6]。ルビーの叔父、ポーク・ラフーンはアメリカ合衆国下院議員を2期務めた[4]

ラフーンはマディソンビルの公立学校で初等教育を受けた。そこにいる間に、教師の1人は姉のスーザン・イザベラ・ラフーンであり当時まだ16歳だった。ラフーンが15歳のとき、畑を耕しているときにラバに腰を蹴られ、ナッシュビルの病院に6週間入院しなければならなくなった。同年の冬には氷の上で滑って、再度腰を痛めた。これらの怪我のために右足が左足よりも1.5インチ (38 mm) 短くなり、その後の生涯を通じて特別の靴を履き、杖を突いて引きずって歩くことになった。この怪我の後、両親はラフーンが農夫では生きていけないだろうと判断し、W・C・オブライアンの私立学校に入れた。ラフーンは17歳のときまでに、ホプキンス郡のチャールストンにある公立学校で教師をしていた[7]
法と政治の経歴

1886年、ラフーンは叔父のアメリカ合衆国下院議員ポーク・ラフーンと共に住むためにワシントンD.C.に移転した[8]。そこでは年金事務所の支配人であるC・R・フォークナー判事の事務所で使い走りを務めた[8]。1887年9月、コロンビア法学校(バーノン・ギプソンはジョージ・ワシントン大学法学校の前身だと言っている)に入学した[9][10]。1888年10月17日、ワシントン・アンド・リー大学に転入し、1890年には法学士号を得た[9][11]。その後はマディソンビルに戻り、法廷弁護士として認められ、ウィリアム・H・ヨスト判事の事務所で法律実務を始めた[8]。民主党に入党して活動するようになり、郡の選挙管理事務官を務めた[12]。1892年、ウォード・ヘッドリーを破って市検察官に当選した[12]。1894年、ホプキンス郡検察官に立候補したが、ロイ・サーモンに17票差で敗れた[13]

ラフーンは1894年1月31日に、マディソンビルのルシール・ホテルでメアリー・"メイ"・ブライアント・ニスベットと結婚した。この夫婦には3人の娘が生まれた。妻のメイは夫の政治活動を支えるだけでなく、自らも政治に活動的だった。1932年から1960年の民主党全国大会では毎回ケンタッキー州の代表となり、1932年にフランクリン・ルーズベルトが初めて大統領選挙に出馬した時は、活発に応援した。1897年、家計を補うためにルビー・ラフーンはフェニックス保険会社マディソンビル支店の共同経営者になった。1901年にはその持ち分を売却し、再度郡検察官に立候補した。ラフーンは3,335票を獲得し、対抗馬のトマス・E・フィンリーの2,910票を抑えて当選した。1905年には再選を果たし、ホプキンス郡の検察官で再選を果たした初めての者になった[14]

1907年、ラフーンは州財務官に立候補した[9]。民主党予備選挙では無投票で選ばれたが、選挙では民主党全体が敗北した[15]。1911年には州の監査官に立候補したが、このときは予備選挙でヘンリー・ボスワースに敗れた[16]。同年、民主党州大会ではホプキンス郡の代表の1人に選ばれた[17]。1912年、州議会が州保険審査委員会を州監査官の下に創設する法案を成立させ、ラフーンは保険分野での経験があり、また党への忠誠心も高かったのでその報償として、ボスワースから委員長に指名された[18]。1915年、ラフーンは第4司法地区の州検察官に立候補した。


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