ルパート・ブルック
生誕ルパート・ショーナー・ブルック
1887年8月3日
イギリス、ワーウィックシャー
ルパート・ショーナー・ブルック(Rupert Chawner Brooke、時にミドル・ネームがChaucerと紹介されることがある[1]。1887年8月3日?1915年4月23日[2])は、イギリスの詩人。第一次大戦中に戦争について謳った理想主義的な14行詩、特に「兵士」で知られている。また、その少年を思い起こさせる見た目の良さでも知られ、その容姿故にアイルランドの詩人イェーツをして「イングランドで一番ハンサムな若者」と言わしめた[3][4]。
幼少期ブルックの生家
ワーウィックシャー、ラグビーのヒルモートン・ロード5番街に生まれる[5][6][7]。三人兄弟の二人目で、父はウィリアム・パーカー・ブルック、ラグビーにある学校の校長を務めていた。母親はルース・メアリー・ブルック、旧姓コッタリル。ブルックはラグビーにある2つの私立学校を出ている。ヒルブロウ・スクール(英語版)とラグビー・スクールである。1905年、セント・ジョン・ルーカスの友人となる。ルーカスはこれ以降、ブルックに対して助言者のような存在となる[7]。
ヨーロッパを旅する一方で、「ジョン・ウェブスターとエリザベス朝の演劇」という論文を完成させた。この論文で、ブルックは、ケンブリッジのキングズ・カレッジの学位を取得している。キングズ・カレッジでは「ケンブリッジの使徒達」という秘密結社の一員となり、またケンブリッジ大学フェビアン協会(後のケンブリッジ大学労働党クラブ)の議長に選出されている。マーロウ・ソサイティ演劇クラブの設立を手伝い、ケンブリッジ大学ギリシア演劇には俳優として参加している。 ブルックはブルームズベリー・グループの参加者達の間に友人を作るのだが、グループの中にはブルックの才能を称讃する者もいれば、ブルックの容姿の良さに感銘を受ける者もいた。ヴァージニア・ウルフはヴィタ・サックヴィル=ウェストに、かつてケンブリッジの学生だった頃、月明かりに照らされたプールでブルックと一緒にまっ裸で泳いだことがあるのを自慢していた[8]。 ブルックは、ジョージアン・ポエッツ
生涯と経歴
1912年に、ブルックは感情面での重大な危機を経験する。その原因は性的な混乱と嫉妬で、結果として長く続いたキャサリン・レアード・コックスとの関係の破綻を招いてしまう[9]。ブルックは偏執病を病み、「リットン・ストレイチーが計画してブルックとコックスの関係を壊し、コックスがヘンリー・ラムに会えるようそそのかしている」と思い込んだため、ブルームズベリー・グループの友人達とは袂を分かつことになり、神経衰弱となり、結局は健康を回復させるためにドイツに向けて旅立つことになった[10]。
回復のための一環としてブルックは北米とカナダを旅して回り、ウエストミンスター・ガゼットに旅日記を書いた。故郷に戻る前に随分と遠回りをして、太平洋を渡りポリネシアにまで足を延ばしてその地で数ヶ月過ごした。その後かなり経ってから、ブルックがポリネシアに滞在した際、タータマタというタヒチの女性との間に娘が出来ていたことが明らかにされた。この時、ブルックは、生涯で最も心が満たされる関係を持つことができたようである[11][12]。
ブルックに恋する人間は尽きることなく現れた[13]。彼はキャスリーン・ネスビットと恋愛関係となり、また、ノエル・オリヴィエとは一度婚約している。ノエルとは、彼女が15歳の時に進歩的なベデイルズ・スクールで出会っている。