ルノー・ド・シャティヨン
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ルノー・ド・シャティヨン
Renaud de Chatillon
アンティオキア公
ヘブロンおよびモンレアル領主
アンティオキア総大司教(英語版)のエムリー・ド・リモージュ(英語版)を拷問するルノー・ド・シャティヨン(ギヨーム・ド・ティールが著した『歴史』とその『続編』の13世紀後半の写本より)
在位アンティオキア公
1153年 - 1160/1年
トランスヨルダン領主(英語版)
1176年 - 1187年

出生1124年頃

死去1187年7月4日
ヒッティーン(英語版)
配偶者コンスタンス・ダンティオシュ
 ステファニー・ド・ミイィ(英語版)
子女アニェス・ダンティオシュ
アリックス
父親エルヴェ2世・ド・ドンジー
母親名前の不明なユーグ・ド・ブランの娘
宗教カトリック
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ルノー・ド・シャティヨン(フランス語: Renaud de Chatillon, 1124年頃 - 1187年7月4日)は、フランス貴族の息子として生まれ、1147年に第2回十字軍に参加したのちエルサレム王国に留まり、婚姻を通じて最初にアンティオキア公、次いでエルサレム王国の摂政とトランスヨルダン(英語版)(ヨルダン川東岸地域)の領主となった人物である。最後はルノーの停戦違反を口実にエルサレム王国へ侵攻したサラーフッディーン(サラディンの呼び名でも知られる)にヒッティーンの戦いで敗れ、捕虜となって処刑された。

1124年頃にドンジー(英語版)領主の息子として生まれたルノーは1147年にフランス王ルイ7世の軍に加わる形で第2回十字軍に参加した。フランス軍は2年後に撤退したものの、ルノーは現地に留まり、エルサレム国王ボードゥアン3世の下でアスカロンの包囲戦(英語版)を戦った。その後、アンティオキア公国の公女であるコンスタンスと結婚し、アンティオキア公の地位を手にした。アンティオキア公時代の1156年には当時ビザンツ帝国領であったキプロスを襲撃したが、後に皇帝マヌエル1世コムネノスが率いるビザンツ軍による侵攻を招く結果となり、最終的に屈辱的な条件による講和を強いられた。1160年か1161年にはユーフラテス川流域を襲撃した際の帰路でザンギー朝の将軍に捕らえられ、アレッポで監禁された。

ルノーの監禁生活は15年に及んだが、1176年に解放されると1177年にはエルサレム王国のトランスヨルダン領の相続人であったステファニー・ド・ミイィ(英語版)と結婚し、トランスヨルダンの領主となった。国王のボードゥアン4世からはヘブロンも与えられ、王国内で強い影響力を持つ人物となった。さらにイスラーム勢力への敵対姿勢を明確に打ち出し、1183年には海軍による紅海への遠征にも乗り出した。1185年と1186年にボードゥアン4世とその後継者のボードゥアン5世(英語版)が相次いで死去すると、テンプル騎士団などとともにボードゥアン4世の姉のシビーユとその夫のギー・ド・リュジニャンを支持し、反対派を押し切って両者を国王に推戴した。しかし、ルノーはエジプトシリアの一部を支配していたサラーフッディーンとエルサレム王国の間で結ばれていた停戦条約をたびたび破り、エジプトとシリアの間を往来するキャラバンを襲撃したことで、最終的にサラーフッディーンの怒りを買うことになった。そのサラーフッディーンは1187年にエルサレム王国に対する聖戦(ジハード)を宣言し、自身の支配地から軍隊を招集した。

これに対しルノーは国王のギーを説得してサラーフッディーンに決戦を挑んだものの、ヒッティーンの戦いで大敗を喫して捕虜となり、最後はサラーフッディーンから背信行為の数々を非難された末に処刑された。現代の歴史家の多くはルノーについて、イスラーム教徒に対する以上にキリスト教徒に害をもたらした無責任な人物とみなし、ルノーの戦利品への欲望がエルサレム王国に危機的な状況を招いたと考えている。しかし、バーナード・ハミルトンのような一部の歴史家は、サラーフッディーンの手によって近隣のイスラーム諸国が統一されていく状況を阻止しようとした唯一の十字軍指導者だったとしてルノーの肯定的な面を評価している。
出自と初期の経歴

ルノーはフランスのドンジー(英語版)領主エルヴェ2世の下の息子として生まれた[1][2]。古い歴史書ではルノーはジアン伯ジョフロワの息子とされているものの[3]、現代の歴史家であるジャン・リシャール(英語版)はルノーとドンジー領主の間の血縁関係の存在を論証した[注 1]。ドンジー領主の一族はブルゴーニュ公国(現在のフランス東部)の有力貴族であり、後期ローマ帝国時代の著名なガロ・ローマ系貴族の一門であったパッラディーの子孫だと主張していた[1][5]。ルノーの母親はラ・フェルテ=ミロン(英語版)の領主であったユーグ・ド・ブランの名前の不明な娘である[6]

1124年頃に生まれたルノーはシャティヨン=シュル=ロワール(英語版)の領主の地位を相続した[1][7]。その数年後にルノーはフランス王ルイ7世(在位:1137年 - 1180年)に宛てた手紙の中で、自分の世襲財産の一部が「暴力的かつ不当に没収された」として不満を漏らしている。歴史家のマルコム・バーバー(英語版)は、恐らくこの出来事がルノーに祖国を離れ十字軍国家へ向かわせるきっかけになったのだろうと述べている[8][注 2]。そのルノーは1147年の第2回十字軍の遠征の際にルイ7世の軍に加わってエルサレム王国に向かい、2年後にフランス軍が遠征を断念した時に現地に留まることを選択した[8][10]。その後は1153年の初頭にエルサレム王ボードゥアン3世(在位:1143年 - 1163年)の軍に加わり、アスカロンの包囲戦(英語版)で戦ったことが知られている[11]

予想外なことに、ルノーはそのアスカロンの包囲戦が終わる前にアンティオキア公女のコンスタンスと婚約した。ルノーとは政治的に対立関係にあった12世紀の歴史家のギヨーム・ド・ティールは、ルノーを「一種の雇われ騎士のようなもの」と評し、婚約当時のルノーとコンスタンスの間には距離的な隔たりがあったことを強調している[8][11]。そのコンスタンスはアンティオキア公ボエモン2世(在位:1111年または1119年 - 1130年)の跡を継いだ一人娘だったが、1148年6月28日に起こったイナブの戦いで夫のレーモン・ド・ポワティエが戦死し、未亡人となっていた[12][13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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