ルネ・クレール
Rene Clair
帽子の作曲家エリック・サティとサングラスのクレール (1924年)
本名ルネ=リュシアン・ショメット
Rene-Lucien Chomette
生年月日 (1898-11-11) 1898年11月11日
没年月日 (1981-03-15) 1981年3月15日(82歳没)
出生地 フランス共和国 パリ
死没地 フランス オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌ
職業映画監督、脚本家、映画プロデューサー
ジャンル映画
活動期間1924年 - 1965年
配偶者ブローニャ・パールマッター
主な作品
『巴里の屋根の下』
『自由を我等に』
受賞
ヴェネツィア国際映画祭
楽しい映画賞
1932年 『自由を我等に』
国際映画批評家連盟賞
1952年 『夜ごとの美女』
その他の賞
ロカルノ国際映画祭
金豹賞
ルネ・クレール(Rene Clair, 本名:ルネ=リュシアン・ショメット(Rene-Lucien Chomette)、1898年11月11日 - 1981年3月15日) は、フランスの映画監督・脚本家・映画プロデューサーで「詩的リアリズム」の監督といわれる。 1898年11月11日、パリでルネ=リュシアン・ショメットとして生まれ、エミール・ゾラが「パリの胃袋」と呼んだ中央卸売市場のあったパリ1区レ・アル地区で育った。その後、リセ・モンテーニュ (fr
来歴
1922年からブリュッセルで映画技法を学んだ。1924年、監督処女作となる『眠る巴里』 (Paris qui dort) 、次いでアバンギャルドの短編映画『幕間』を発表した。ロシア領ポーランド生まれの舞台装置家ラザール・メールソン(英語版)などと知り合う。以後、『巴里の屋根の下』(1930年)で「詩的レアリスム」の監督として評価されることになる。『自由を我等に』(1931年)[1]など、詩情と諧謔と風刺に溢れる多くの映画を発表した。喜劇の『最後の億万長者』(1934年)は日本では評価されたものの、失敗したことから映画プロデューサーのアレクサンダー・コルダに誘われて1935年からはイギリスに渡り、『幽霊西へ行く』(1935年)など2本の作品を発表した。
第二次世界大戦時にはハリウッドに移り、『奥様は魔女』(1942年)やアガサ・クリスティ原作の『そして誰もいなくなった』(1945年)など5本の作品を発表したが、ヴィシー政権からは国籍を剥奪された。