ルナ計画
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赤色が月面におけるルナ計画の着陸位置。

ルナ計画(ルナけいかく、露:Программа Луна)は、ソビエト連邦の無人月探査計画である。1959年から1976年までの間に、ルナ1号からルナ24号までを月に送った。他に19機の打ち上げ失敗機もあるので、ソ連は1958年から1976年の間に、ゾンド計画を除いて合計43機の月探査機を打ち上げたことになる。

当初、宇宙開発競争においてアメリカ合衆国の一歩先を進んでいたソビエト連邦は、この計画によって月探査計画でも米国に先んじることとなった。米国は、のちのアポロ計画で立場が逆転するまで、ルナ2号の月面到達やルナ9号の月面着陸の成功によって、非常に危機感を覚えたという。

また、ルナ計画の15号以降は、1975年に予定されていた(当初予定は1970年後半)全自動操縦による有人月面着陸「ソユーズL3計画」の下準備であった。
計画の推移
初期のルナ計画

1957年から1958年にかけて、ソ連・アメリカとも人工衛星打ち上げによって宇宙開発の第一歩を踏み出し、宇宙開発が国威発揚の格好の手段であることを知った。両国とも有人宇宙飛行という大きな目標を抱えたが、有人飛行の開発が本格化する前にそれより難易度の低い月探査競争が行われた。ルナ1号から3号まではこの過程で打ち上げられた。

この時代の月探査は月への接近あるいは衝突を目的としていた。アメリカは1958年9月にパイオニア月探査機の打ち上げを開始したものの、十分な成果は得られなかった。同じ頃、ソ連も月面衝突を目指してルナ探査機を打ち上げたが、ロケットの故障のため3回連続で失敗した。1959年1月2日の4回目の打ち上げで初めて月へ向かう軌道に探査機を投入することに成功し、これをルナ1号と名づけた。ルナ1号は月に衝突しなかったものの、地球の重力圏から離れた世界初の人工惑星になった。

1回の失敗をはさんで1959年9月12日に打ち上げられたルナ2号は世界で初めて月面に到達した人工物となった。3週間後の10月4日に打ち上げられたルナ3号は、月の裏側を世界で初めて撮影することに成功した。1960年4月には2機の月探査機を打ち上げたがこれはいずれも失敗した。以降ソ連は有人宇宙飛行の実現に力を入れたため、月探査はしばらく途絶えることとなった。

アメリカはパイオニア計画で対抗したが、目立った成果としてはパイオニア4号が月から6万kmの距離を通過した程度であった。
月探査の再開

1961年4月12日、ボストーク1号が世界初の有人宇宙飛行に成功し、有人宇宙飛行においてもソビエトがアメリカに先んじることになった。これを受けて1961年5月、アメリカ大統領のケネディが10年以内の有人月着陸で巻き返しを図ることを表明し、米ソともに有人月飛行が次の目標に据えられた。

ソ連は有人月飛行の調査と技術開発のためルナ計画を再開した。ルナ4号から14号では新規に設計された重量1.5トンのE-6(Ye-6)シリーズを使用した。E-6はユニットを取り替えることで月着陸にも周回にも対応できた。これは、対するアメリカが衝突用のレインジャー、着陸用のサーベイヤー、周回用のルナ・オービターと3種類の探査機を開発したことと対照的である。打ち上げには従来のボストークロケットより高性能なモルニヤロケットを使用した。

アメリカは1962年に月へ向けてレインジャー探査機のブロック2(3号-5号)を飛ばしたが、いずれも失敗に終わった。1964年にはレインジャーのブロック3(6号-9号)で再度月探査に挑戦し、6号を除いて成功を収めた。アメリカは続いて着陸機と周回機の準備を進めた。一方のソ連は1963年に世界初の月面軟着陸を目指してE-6探査機の打ち上げを開始した。当初は失敗が続き、3年間の間に11機もの探査機が失われたが、サーベイヤーの運用が始まる5ヶ月前の1966年2月3日にルナ9号が世界初の月軟着陸を成し遂げた。さらに1回の失敗を挟んで1966年4月3日ルナ10号が世界初の月周回探査機となった。

ルナ11号は月周辺の環境や月の表面を調査し、ルナ12号は軌道上から月面を撮影した。ルナ13号は改良型の月着陸機で、月面の撮影や土壌の調査を行った。2回の失敗の末に1968年4月7日打ち上げられたルナ14号は、有人飛行のための宇宙船の通信や追跡の実験台となった。

ルナ計画は一定の成果を収めていた一方、ソ連の有人月着陸計画(L3計画)の遅れは決定的なものとなっていた。月接近飛行(L1計画)はまだアメリカに先んじる望みがあり、1968年3月以降、ルナ計画とは別に月接近飛行のテストフライトとしてゾンド宇宙船が打ち上げられた。ところが宇宙船はトラブルが相次ぎ、有人打ち上げが延期されている間に、1968年12月にアメリカのアポロ8号が世界初の有人月周回を成功させた。これによりソ連はアメリカの逆転を許すこととなった。
E-8シリーズ

1960年代の終わりにはモルニヤロケットより強力なプロトンロケットが使用可能になった。プロトンは月まで重量5トン程度のペイロードを送り届けることができた。このロケットに合わせて設計されたのがE-8(Ye-8)探査機であった。E-8は重量5トンの大型月探査機で、E-6と同様に複数の派生型が用意された。E-8は月面車を使用して探査を行う型、E-8-5はサンプルリターン月の石の回収)を行う着陸機、E-8LSは周回探査機であった。

E-8型探査機の打ち上げの準備は1969年に整ったが、最初の2回の打ち上げは失敗した。2回目の飛行で打ち上げられたのは土壌を回収して地球へ届けるE-8-5だった。これにはアポロ計画に先駆けて地球に月の石を持ち帰り、世界にアピールする狙いがあった。

3回目の打ち上げもE-8-5が使用された。ルナ15号と名づけられたこの探査機が打ち上げられたのは、アポロ11号のわずか3日前だった。ルナ15号は月周回軌道に留まった後、アポロ11号の着陸直前に月面への降下を開始した。順調に進めばアポロの帰還の前に世界初の月の石を手に入れることができるはずであったが、探査機は着陸前の減速に失敗して墜落した。

ルナ15号の失敗によりソ連はアメリカより先に月の石を手に入れることはできなかった。しかし有人月着陸のために月の土壌の安全性を調査し、また技術力のアピールに役立てるため、E-8-5の打ち上げは続けられた。ルナ15号以降、3機の探査機がプロトンロケットの故障により失われたが、1970年9月12日に打ち上げられたルナ16号は初めて無人で月の土を地球に送り返すことに成功した。

1970年11月10日にはルナ17号(E-8)が打ち上げられ、世界初の月面車(ルノホート1号)による探査を行った。ルノホート1号の運用は予定を超えて続けられ、大きな成果を挙げた。


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