ルドルフ1世_(神聖ローマ皇帝)
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このページの名前に関して「ルドルフ1世 (ドイツ王)」もしくは「ルドルフ1世 (ローマ王)」への改名提案されています。
議論はノート:コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)を参照してください。(2024年5月)

ルドルフ1世
Rudolf I.
ローマ王
ルドルフ1世
在位1273年 - 1291年
戴冠式1273年8月24日
別号ハプスブルク伯
オーストリア公

出生1218年5月1日
神聖ローマ帝国
アルザス地方、リンブルク城
死去 (1291-07-15) 1291年7月15日(73歳没)
神聖ローマ帝国
プファルツ地方ゲルマースハイム
埋葬 神聖ローマ帝国
帝国自由都市シュパイアーシュパイアー大聖堂
配偶者ゲルトルート・フォン・ホーエンベルク(アンナ)
 イザベラ・フォン・ブルグント
子女後述
家名ハプスブルク家
王朝ハプスブルク朝
父親ハプスブルク伯アルブレヒト4世(英語版)
母親ハイルヴィヒ・フォン・キーブルク
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ルドルフ1世(16世紀)

ルドルフ1世(Rudolf I.、Rudolf von Habsburg、1218年5月1日 - 1291年7月15日[1])は神聖ローマ帝国ローマ王(ドイツ王、在位:1273年 - 1291年)[注釈 1]ハプスブルク家最初の帝国君主として知られるが、正式な皇帝として戴冠するためのイタリア遠征は実施していない。元はハプスブルク伯ルドルフ4世。大空位時代の中で選帝侯たちはルドルフを御し易い人物と考えて1273年の国王選挙で選出したが、ルドルフは諸侯の思惑に反してハプスブルク家の富と権力を増やし帝国に地盤を作り上げ、結果として大空位時代は終結する[2][3][4]。ただし彼の代ではまだ帝位獲得と王位世襲はできず、大空位時代を含めて200年にわたって非世襲の状態が続く。

ルドルフの採った外交政策と軍事政策は成功を収め、混乱の続いていた帝国に20年近い平和をもたらした[2]。ルドルフ1世のローマ王選出によりハプスブルク家の名前が初めて歴史の表舞台に現れ[5]、ハプスブルク家はヨーロッパ最高峰の皇帝家へと発展していく[6]ボヘミアオタカル2世に勝利してオーストリアを獲得した後、ルドルフはその中心都市ウィーンに一門の拠点を移し、20世紀に至るまでウィーンはハプスブルク家の本拠地とされる[2]。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世は孫、神聖ローマ皇帝カール4世は曾孫、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は来孫、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は昆孫、神聖ローマ皇帝カール5世は雲孫である。
生涯
ローマ王選出前

1218年5月1日[7]にハプスブルク伯アルブレヒト4世(英語版)(1188年 - 1239年)とキーブルク家(英語版)ウルリヒ3世の娘ハイルヴィヒ(1260年没)の間に生まれる。アルザス北部のリムブルク・バイ・ザスバッハでルドルフが誕生した伝承が残るが、伝承の真偽については疑問が持たれている[8]。ハプスブルク家に信頼を置くローマ皇帝フリードリヒ2世が、ルドルフの名付け親となった[7]

13世紀半ばのフリードリヒ2世とローマ教皇の抗争においては、ルドルフは父アルブレヒトと同じく皇帝派(ギベリン)に与し、ハプスブルク分家のラウフェンブルク家と戦った。1240年に父アルブレヒトが没した後、ルドルフは家督の継承から数年の間にラウフェンブルク家から土地を奪取していき、勢力を拡大する[9]。勢力拡大の過程では、母方の伯父であるキーブルク伯ヴェルナーに土地を要求して争った。バーゼルに夜襲をかけた際に女子修道院に放火し、そのために教会から破門を宣告されが数年で破門を解かれ、伯父ヴェルナーとも和解した。1250年にフリードリヒ2世が没した後、ルドルフは彼の遺児であるローマ王コンラート4世に仕える[10]

1253年、ルドルフはシュヴァーベンのホーエンベルク伯の娘ゲルトルートと結婚する[11]

1264年に母方の実家であるキーブルク家の男子が断絶すると、ルドルフは母方の従兄ハルトマンの娘アンナの後見人となる。ルドルフはアンナをラウフェンブルク家のエーベルハルトに嫁がせ、1273年にエーベルハルト夫妻から中央スイス各地の支配地、ツークなどの都市を購入し、親の代に分裂したハプスブルクの支配地を再統一した[12]。しかし、契約文書の中に購入地として記載されていないオプヴァルデンが簒奪された形でルドルフの手に渡り、買収金も全額支払われなかったため、ラウフェンブルク家には大きな不満が残る[13]

本拠地のアルザス、分家から買い戻したスイスの領地からの収入により、ルドルフは世俗諸侯中で選帝侯に次ぐ資力を有するようになった[14]。ハプスブルク家はスイス最大の封建領主となるが、帝国全土ではシュヴァーベン地方を除いて無名に近い存在だった[15]


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