ルドルフ・フリムル
Rudolf Friml
生誕1879年12月7日
オーストリア=ハンガリー帝国 プラハ
死没 (1972-11-12) 1972年11月12日(92歳没)
アメリカ合衆国 ロサンゼルス
ジャンルクラシック、ポピュラー
職業作曲家、ピアニスト
チャールズ・ルドルフ・フリムル(Charles Rudolf Friml[1] 1879年12月7日 - 1972年11月12日)は、オペレッタ、ミュージカル、歌曲、ピアノ曲の作曲家、ピアニスト。日本では『蒲田行進曲』の作曲者として知られる。故郷のプラハで音楽の基礎を学び、同地でしばらく演奏家として活動した後アメリカ合衆国へと渡って作曲家となった。代表作は『Rose-Marie
』並びに『The Vagabond King』であり、いずれの作品もブロードウェイとロンドンで成功を収めるとともに映画化された。フリムルはプラハに生まれた。当時の同市はオーストリア=ハンガリー帝国に属しており、現在はチェコの首都である。幼少期から音楽の才能を現したフリムルは1895年にプラハ音楽院に入学、アントニン・ドヴォルザークの下でピアノと作曲を学んだ[2]。しかし、許可なく演奏を行ったことを理由として1901年に放校処分となる[3]。プラハや後のアメリカで、フリムルは歌曲やピアノ曲、その他作品を作曲して出版し、そのうち歌曲集『Pisne Zavisovy』は賞を獲得した。曲集中最後の『Za tichych noci』は、1941年にナチス占領下のチェコスロバキアで有名な映画の題材となった。
音楽院を後にしたフリムルはヴァイオリニストのヤン・クベリークの伴奏者としての職を得る。クベリークと共に2度のアメリカ演奏旅行(1901年-1902年と1904年)に赴いた彼は、1906年にアメリカに永住することになった。これにはチェコのソプラノ歌手エミー・デスティンの手引きがあったようである。フリムルのニューヨークでの最初の仕事はメトロポリタン・オペラでのコレペティートルであった。ピアニストとしてのアメリカデビューは1904年にカーネギーホールで飾っており、1906年にはウォルター・ダムロッシュが指揮するニューヨーク・フィルハーモニックと共にピアノ協奏曲 ロ長調を初演している。しばらく居を構えたロサンゼルスでは、1909年にマチルダ・バルークと結婚した。彼らはチャールズ・ルドルフ(ジュニア)(1910年)とマリー・ルチル(1911年)という2人の子どもを儲けている[1]。フリムルの2番目の妻はブランク・ベターズで、フリムルのミュージカル『Katinka』の合唱に参加した女優であった。3番目の妻はフリムル作の『Glorianna』でメイド役を演じたエルジー・ローソンで、彼女との間には息子のウィリアムが生まれた。4番目の妻はケイ・ウォング・リングで、彼女との結婚が最後となった。それまでの3人の妻とは離婚によって別れている[4]。
The Fireflyと初期オペレッタ[ソースを編集]
20世紀はじめの数十年の間、アメリカの劇場で最も人気を博した演目はオペレッタであり、最大の知名度を誇ったのはアイルランド生まれのヴィクター・ハーバートであった。1912年、オペレッタの歌姫エマ・トレンティーニがブロードウェイで新作オペレッタの主役を務めると報じられた。作品はハーバートと作詞家のオットー・ハーバックによる『The Firefly』であった。