ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン
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ルドルフ
Rudolph
ハプスブルク=ロートリンゲン家
2008年

全名一覧参照

Rudolph Syringus Peter Karl Franz Joseph Robert Otto Antonius Maria Pius Benedikt Ignatius Laurentius Justiniani Marcus d'Aviano
ルドルフ・ジリングス・ペーター・カール・フランツ・ヨーゼフ・ロベルト・オットー・アントニウス・マリア・ピウス・ベネディクト・イグナティウス・ラウレンティウス・ユスティニアニ・マルクス・ダヴィアノ

称号オーストリア大公
出生 (1919-09-05) 1919年9月5日
スイス、プランジャン(英語版)
死去 (2010-05-15) 2010年5月15日(90歳没)
ベルギーブリュッセル
埋葬 スイスアールガウ州ムーリ修道院
配偶者クセニヤ・チェルニシェワ=ベゾブラソワ
 アンナ・ガブリエーレ・フォン・ヴレーデ
子女一覧参照

マリア・アンナ
カール・ペーター
ジメオン
ヨハネス・カール
カタリーナ・マリア

父親カール1世
母親ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
宗教キリスト教カトリック教会
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ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン(Rudolph Habsburg-Lothringen, 1919年9月5日 - 2010年5月15日)は、オーストリアの旧統治者家門ハプスブルク=ロートリンゲン家の一員。最後のオーストリア皇帝福者カール1世の五男、末息子。
生涯ルドルフ(左から3番目)と兄弟姉妹

元皇帝カール1世とその妻でパルマ公ロベルト1世の娘であるツィタ皇后の間の第6子、五男として生まれた。洗礼名はハプスブルク家出身の最初のローマ王ルドルフ1世にちなんでいる。両親の亡命先であるマデイラ島で幼少期を過ごしたが、1922年に父が死ぬと、家族とともにベルギーに移住した[1]。1940 年、ナチスの西側侵攻を逃れ、家族と共にカナダに移り、ケベック シティのラヴァル大学で経済学と社会科学を学びました[2]

家長である長兄オットーの指示によりアメリカ軍に入隊し、軍の特殊任務で偽名を使ってアンシュルス後のオーストリアに送り込まれ、そこで反ナチのレジスタンス運動(Widerstand gegen den Nationalsozialismus)に参加している[1]。戦後、ウォールストリートで証券会社に勤務し、さらにベルギー領コンゴに移住してコーヒー農場を経営するかたわら、ベルギーで銀行取締役を務めた[3]

1953年6月22日にニューヨークにおいて、ロシア人亡命貴族セルゲイ・チェルニシェフ=ベゾブラソフ伯爵の娘クセニヤ・チェルニシェワ=ベゾブラソワ伯爵夫人(1929年 - 1968年)と結婚し、間に4人の子女を儲けたが、クセニヤは1968年にベルギーのエノー州ソワニー(英語版)で交通事故により亡くなった。ルドルフは1971年10月15日にバイエルン州エリンゲンにおいて、ヴレーデ侯カールの娘アンナ・ガブリエーレ(1940年 - )と再婚し、間に娘を1人儲けている[1][4]

1980年、ルドルフは1919年4月10日にオーストリア共和国政府の制定したハプスブルク家の財産没収・国外追放に関する法律(ハプスブルク法)が自らに適用されていることが違法だとオーストリアの裁判所に訴え、勝訴した。同法の制定後に生まれた自分が、帝位請求権放棄を宣言しない限り入国を禁止されるのは、不当であるというのが、ルドルフの主張であった[5]。2010年に死去し、スイス、アールガウ州のフライアムト(英語版)にあるムーリ修道院に葬られた。
子女

最初の妻クセニヤとの間に4人の子女をもうけた。

マリア・アンナ・シャルロッテ・ツィタ・エリーザベト・レギーナ・テレーゼ(1954年 - ) - 1981年、ピョートル・ゴリツィン公爵と結婚

カール・ペーター・オットー・ゼールゲ・ヨーゼフ・パウル・レオポルト・ハインリヒ(1955年 - ) - 1998年、ヴレーデ侯女アレクサンドラと結婚

ジメオン・カール・オイゲン・ヨーゼフ・レオポルト(1958年 - ) - 1996年、両シチリア王女マリーア(カラブリア公カルロスの娘)と結婚

ヨハネス・カール・ルートヴィヒ・クレメンス・マリア・ヨーゼフ・マルクス・ダヴィアノ・レオポルト(1962年 - 1975年)

2番目の妻アンナ・ガブリエーレとの間の娘を1人もうけた。

カタリーナ・マリア・ヨハンナ・ツィタ・ゾフィー・カスパーラ(1972年 - ) - 1998年、セッコ・ディ・アラゴーナ伯爵マッシミリアーノと結婚

脚注^ a b cKaisersohn Rudolph Habsburg-Lothringen gestorben auf DiePresse.com vom 25. Mai 2010.
^ Bernier Arcand, Philippe (2022). “Les Bourbon-Parme dans les institutions d’enseignement du Quebec” (フランス語). Histoire Quebec 28 (1): 24?28. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 1201-4710. https://www.erudit.org/en/journals/hq/1900-v1-n1-hq07421/100332ac/abstract/. 
^Kaisersohn Rudolph Habsburg-Lothringen tot auf derStandard.at vom 25. Mai 2010.
^ Hans Friedrich von Ehrenkrook (Hrsg.): Genealogisches Handbuch des Adels. Band 100, Starke, Limburg 1991, ISBN 3-7980-0700-4, S. 99.
^ E. Lauterpacht, C. J. Greenwood (Hrsg.): International Law Reports. Cambridge University Press, London 1988, S. 475ff.


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