ルドルフ・ディーゼル
Rudolf Diesel
ルドルフ・ディーゼル
生誕 (1858-03-18) 1858年3月18日
フランス帝国、パリ
死没 (1913-09-29) 1913年9月29日(55歳没)
イギリス海峡
国籍 ドイツ帝国
教育ミュンヘン工科大学
配偶者マルタ・ディーゼル
子供ルドルフ、ヘディ、オイゲン
親テオドール・ディーゼル(父)
エリーゼ・ディーゼル(母)
業績
専門分野機械工学
雇用者スルザー、リンデ、マンAG
成果ディーゼルエンジンの発明
受賞歴エリオット・クレッソン・メダル(1901年)
ルドルフ・クリスティアン・カール・ディーゼル(ドイツ語: Rudolf Christian Karl Diesel、1858年3月18日 - 1913年9月29日)は、ドイツ人の機械技術者で発明家。ディーゼルエンジンの発明で知られている。 1858年、3人兄弟の2人目としてフランスのパリで生まれる[1]。両親はバイエルンからの移民としてパリに住んでいた[2][3]。父テオドールはアウクスブルクで製本業を営んでいたが、1848年にフランスに移住。1855年、ニュルンベルクの商人の娘とパリで出会い、結婚。革製品の製造を生業とするようになった。 幼少期はフランスで過ごしたが、1870年に普仏戦争が勃発し、一家も含めドイツ人はフランスから退去させられた。ディーゼル一家はロンドンに移住。しかし12歳のルドルフは、ドイツ語を母語として教育されるようアウクスブルクの母方の叔父と叔母の下へ送られ、叔父が数学の教師をしていた職業訓練学校 (Konigliche Kreis-Gewerbsschule
生涯
14歳のとき、技術者になりたいと書いた手紙を両親に送っている。1873年にトップの成績で学校を卒業すると、アウクスブルクに新たに創立された工業学校に進学。2年後、両親は彼が就職することを希望していたが、ミュンヘン工科大学から奨学金を受けられることになり、ディーゼルは同大学に進学した。
ミュンヘンで指導を受けた教授の1人としてカール・フォン・リンデがいた[4][注釈 1]。1879年7月、ディーゼルは腸チフスにかかり、留年することになった。翌年の卒業試験を待つ間、スイスのヴィンタートゥールにあるスルザー (Sulzer Brothers Machine Works) で技術者としての実地経験を得た。1880年1月、トップの成績で卒業するとパリに戻り、かつての教授カール・フォン・リンデの助手として冷凍・製氷工場の設計と建設を行った。1年後、ディーゼルはその工場の工場長となった。
1883年に結婚。その後もリンデで働き、数々の特許をフランスとドイツで取得していった。
1890年、妻子と共にベルリンに移り、リンデの研究開発部門の責任者に就任し、重役待遇を受けることになった。リンデの従業員として、職務上取得した特許を個人的に使うことは許されなかったが、ディーゼルは冷凍や冷蔵以外の分野にも研究を広げていった。蒸気について研究しはじめ、熱効率と燃費を研究するうちにアンモニアの蒸気を使った蒸気機関を開発。しかしその機関は試験運転中に爆発し、ディーゼルは九死に一生を得た。何ヶ月も入院し、その後も健康と視力に問題を抱えるようになった。
その後カルノーサイクルに基づいた内燃機関の設計を始め、1893年「既知の蒸気機関と内燃機関を置換する合理的熱機関の理論と構築」(Theorie und Konstruktion eines rationellen Warmemotors zum Ersatz der Dampfmaschine und der heute bekannten Verbrennungsmotoren) と題した論文を発表し、ディーゼルエンジン発明の基盤を築いた。1893年2月23日、特許を取得。なお、それに先立つ1886年にはカール・ベンツがガソリンエンジンを搭載した自動車の特許を取得している。