市旗市章
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ルーツィクルーツィク (ウクライナ)
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度44分52秒 東経25度19分28秒 / 北緯50.74778度 東経25.32444度 / 50.74778; 25.32444
ルーツィク(ウクライナ語: Луцьк)はウクライナのヴォルィーニ州ルーツィク地区にある都市。ヴォルィーニ州の州庁所在地である。スティール川の河岸に位置する。都市の高さは海抜181 mである。面積は41.6 km2。人口は215,986人 (2022年1月1日)[1]。
ルーツィクは1000年に創建された。1432年に自治権を獲得した。1085年に市制施行された。
市内ではルーツィク駅がある。首都キエフまでの直線距離は370 kmであるが、鉄道で469 km、車道で388 kmとなっている。ルーツィクの日は、8月の第三の日曜日となっている。 由来は不明。「弓の町」か「ルーカの町」を意味していると言われる。「弓」(ウクライナ語:ルーク)は、市内の北西の境を決めるスティール川の湾曲線のことである。「ルーカ」は、古代における現地の東スラヴ族の一つ、ドゥリーブィ族の頭領の名である。
語源
地理が流れているが、東は湿地が広がっている。
歴史
9世紀 - 10世紀:東スラブ族の一つ、ドゥリーブィ族の根拠地。
1000年:ヴォロディーメル1世がヴォルィーニ地方をキエフ大公国に統合し、ルーツィク要塞を築城する。ルーツィク城下町が発達する。
1058年:『ルーシ年代記』で初めて登場する。ルーツィク要塞はボレスワフ1世が率いるポーランド勢による6ヶ月間の包囲に持ち堪える。
1154年:ヴォルィーニ公国からルーツィク公国が分離。
1227年:ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の大公、ダヌィーロ1世のものとなる。
1240年:モンゴルのルーシ侵攻。城下町はモンゴル人によって略奪されるが、ルーツィク要塞は落城しなかった。
1259年:ルーツィク要塞は再びモンゴル人の包囲に持ち堪える。
1340年:ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の臨時首都となる。ルーツィク城が築城される。
1388年 - 1430年:リトアニア大公国領となり、ビリニュスに次ぐリトアニアの大公座となる。
1429年:ルーツィク城では、オスマン帝国対策をめぐる東ヨーロッパの諸君主の会議が行われる。
1432年:自治権が下賜される。
15世紀半ば:ルーツィク城が衰退するが、城下町はヴォルィーニ地方の中心地として居続ける。
1569年:ポーランド王国の領土となり、当王国のヴォルィーニ県
1596年:ウクライナ・コサックによって占領される。
1648年:フメルヌィーツクィイの乱中、ウクライナ・コサックによって略奪される。
17世紀後半 - 18世紀:城下町が衰退する。
1705年:スウェーデン軍によって一時的に占領される。
1795年:ロシア帝国の領土となる。
1895年:鉄道が開通する。
1915年:第一次世界大戦中、オーストリアとロシアの間の戦場となる。
1917年:ウクライナ人民共和国の領土となる。
1919年:ポーランド軍によって略奪される。
1921年:ポーランド・ソビエト・リガ平和条約によってポーランドの領土となる。新たに設立したヴォルィーニ県の中央都市となる。
1939年:ソ連軍によって占領され、ヴォルィーニ州の州庁所在地となる。
1941年:ドイツ軍の占領下に置かれる。その直前、ソ連の秘密警察によって3千人の市民が殺害される。
1942年:反独・反ソのウクライナ蜂起軍のゲリラ組織が成立し、軍の部隊が市周辺で活躍する。
1944年:ソ連軍によって占領される。
1991年:ウクライナが独立する。市は、ヴォルィーニ州の州庁所在地となる。
人口
2001年:208,800人[2]
ウクライナ人は約92.5%、その他は6.5%。
母語:ウクライナ語は約97%、ロシア語は3%以下
男性は46%、女性は54%
2022年:215,986人[1]
姉妹都市
ブレスト、ベラルーシ
ジェシュフ、ポーランド
ルブリン、ポーランド
オルシュティン、ポーランド