ルシル・ボール
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Lucille Desiree Ball
ルシル・ボール
1955年
本名ルシル・デジレ・ボール
別名義ルーシー
生年月日 (1911-08-06) 1911年8月6日
没年月日 (1989-04-26) 1989年4月26日(77歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州
職業女優
ジャンルコメディ
活動内容映画、テレビ
配偶者デジ・アーナズ(1940年 - 1960年)
ゲイリー・モートン(1961年 - 1989年)
主な作品
ドラマ
I love Lucy

 受賞
ゴールデングローブ賞
セシル・B・デミル賞
1978
その他の賞

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映画『ステージ・ドア』(1937年)

ルシル・デジレ・ボール(Lucille Desiree Ball、1911年8月6日 - 1989年4月26日)は、アメリカコメディアンモデル映画およびテレビ女優、映画会社の重役。『アイ・ラブ・ルーシー』、『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』、『ザ・ルーシー・ショー』、『陽気なルーシー』、『ライフ・ウイズ・ルーシー』などのシットコムの主演で知られ、存命中アメリカで最も人気があり影響力のある人物の1人とされた。またハリウッドで活動期間の長い俳優の1人でもあった[1]。1930年代から1940年代、映画会社RKOでコーラス・ガールなどの端役として出演していたが、1950年代からテレビで主演するようになった。1960年代から1970年代は映画に出演した。1962年、『スパイ大作戦』や『スタートレック』など多くの人気連続ドラマを製作する本格的なテレビ制作会社では初の女性経営者となった。[2]

エミー賞に13回ノミネートされ、4回受賞した[3]。1977年、Women in Film Crystal Award の最初の受賞者となった[4]。1979年、ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞[5]、1986年、ケネディ・センター名誉賞特別功労賞[6]、1989年、テレビ芸術科学アカデミー Governors Award [7]を受賞した。

1929年、モデルとして活動を始め、後に芸名を「ダイアン・ベルモント」としてブロードウェイで演技の活動を始めた。1930年代、RKOと契約し、映画で多くの端役を経験した。B級映画での多くの役柄により「B級映画の女王」と呼ばれていた。1951年、連続ドラマ『アイ・ラブ・ルーシー』の製作に携わった。夫リッキー・リカード役に当時実生活でも夫であったデジ・アーナズ、エセル・マーツ役にヴィヴィアン・ヴァンス、フレッド・マーツ役にウィリアム・フローレイが共演した。マーツ夫妻はリカード夫妻の住むアパートの管理人で友人である。この番組は180エピソード放送され1957年に終了した。1957年から1960年、『Westinghouse Desilu Playhouse 』の一環の1時間番組で、出演者の追加はあったがこの4人は続投した。この番組の正式なタイトルは、第1シーズンは『The Ford Lucille Ball-Desi Arnaz Show 』、第2シーズンは『The Westinghouse Desilu Playhouse Presents The Lucille Ball-Desi Arnaz Show 』であった。以降1967年まで毎年夏、CBSで『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』として放送された。特別番組の際にはアン・サザーンルディ・ヴァリータルラー・バンクヘッドフレッド・マクマレイおよびジューン・ヘイヴァー、ベティ・グレイブルおよびハリー・ジェイムスフェルナンド・ラマスモーリス・シュヴァリエダニー・トーマスおよび彼の番組『Make Room for Daddy 』の共演者であるレッド・スケルトンポール・ダグラスアイダ・ルピノ、ハワード・ダフ、ミルトン・バールロバート・カミングスなどが出演し、最終回『Lucy Meets the Moustache 』にはアーニー・コヴァックスおよびエディ・アダムスが出演した。他に1962年から1968年までCBSで『ルーシー・ショー』(156エピソード)、1968年から1974年まで『陽気なルーシー』(144エピソード)に主演した。彼女の最後の連続テレビドラマ出演は『Life with Lucy 』であったが、13エピソード製作されたものの8エピソードで打ち切りとなった。

1940年、キューバ人バンドリーダーのデジ・アーナズ駆け落ちした。1951年7月17日、およそ40歳で第一子長女ルーシー・アーナズを出産し[8]、その1年半後、第二子長男デジ・アーナズJr.を出産した[9]。1960年5月4日、離婚。

1989年4月26日、77歳で大動脈解離により亡くなった[10]。当時、仕事上のパートナーでスタンダップ・コメディアンのゲイリー・モートンと再婚しており、27年以上におよぶ結婚生活を送っていた[11]
生い立ち

1911年8月6日、ニューヨーク州ジェームズタウンで父ヘンリー・ダレル・ボール(1887年9月16日 - 1915年2月19日)と母デゼレイ・イヴ・ハント(愛称DeDe ) (1892年9月21日 - 1977年7月20日)との子として生を受ける。出身地についてはモンタナ州ビュートと語ることもある[12]。「ニューヨーク生まれ」よりも「モンタナ生まれ」の方がよりロマンティックだと彼女が語ったと複数の雑誌で報じられ、自分が「西部の子」であると作り上げたとされる[13]。彼女が3歳の頃、モンタナ州アナコンダに転居し、その直後父が亡くなり、その後ミシガン州Wyandotte に転居した[要出典]。彼女の一家はバプテスト教会の信者で、スコットランドフランスアイルランドイングランドの血を引いている[14][15]。系図によるとマサチューセッツ湾植民地の初期の入植者エドマンド・ライスなど植民時代初期の入植者の子孫とみられる[16][17]

Bell Telephone Company の電話保線工員であった父は転勤が多く、彼女が生まれてからの3年間でジェームズタウンからアナコンダ、その後ニュージャージー州トレントンに引っ越した[18]。母が第二子フレッド・ボールを妊娠中、父は腸チフスにかかり、1915年2月に亡くなった[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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