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出典検索?: "ルシタニア" 客船
ルシタニア
基本情報
船籍 イギリス
所有者キュナード・ライン
建造所ジョン・ブラウン・アンド・カンパニー
母港リヴァプール
経歴
起工1904年6月16日
進水1906年6月7日[1]
竣工1907年8月26日
就航1907年9月7日
最後Uボート「U-20」によって1915年5月7日に撃沈
要目
総トン数31,550 トン
排水量44,060 トン
長さ787 フィート (239.87 m)[2]
幅87 フィート6 インチ (26.67 m)
ボイラースコッチ・ボイラー 25基
主機関汽室パーソンズ型蒸気タービン4基
76,000 hp
推進器3翅スクリュープロペラ
最大速力26.7ノット (49.4 km/h)
航海速力25ノット (46.3 km/h)
旅客定員合計 2,198名
一等旅客 552名
二等旅客 460名
三等旅客 1,186名
乗組員850名
その他マスト: 2本
煙突数: 4本
船体外板: 鋼鉄
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ルシタニア(RMS Lusitania)は、イギリス船籍、キュナード・ライン所有のオーシャン・ライナーで、ジョン・ブラウン・アンド・カンパニーによって建造された商船。進水は1906年6月7日木曜日で、当時最大の旅客船であった。
第一次世界大戦中の1915年5月7日、ドイツ海軍の潜水艦U20より、南部アイルランド沖15 kmの地点で雷撃を受け、わずか18分で沈没した。乗客1,198名が死亡した。
犠牲者の中には128名のアメリカ人が含まれており、アメリカが孤立主義政策を一転し第一次世界大戦の参戦へと傾くきっかけとなったが、参戦の決定打となったのは1917年1月のツィンメルマン電報事件である。
建造・テストルシタニアの設計図
ルシタニアの船名は古代ローマ属州のひとつであった「ルシタニア」に由来する。キュナード・ラインによって発注され、ジョン・ブラウン・アンド・カンパニーの367番ドックで1904年6月16日に建造が始まり、1906年6月7日木曜日に進水した[3][4]。
ルシタニアと姉妹船のモーリタニアが建造された時期には、ブルーリボン賞を巡る客船のスピード競争がイギリスとドイツ国(ドイツ帝国)の間で繰り広げられていた。20世紀初頭、このブルーリボン賞はドイツ国が独占しており、世界屈指の海洋国家を自負するイギリスはこれを取り戻そうと必死であった。同時に資産家であったジョン・モルガンが北大西洋を航路とする海運企業の買収を計画しており、その中にはキュナード・ラインのライバル企業であるオセアニック・スチーム・ナビゲーション社のホワイト・スター・ラインも含まれていた。これを受けキュナード・ラインは1903年、バルフォア政権から260万ポンドの援助を受けてルシタニアとモーリタニアの2隻を建造することを発表し、イギリス政府も有事の際には軍が徴用し仮装巡洋艦として使用することを前提に15万ポンドの維持費を援助すると発表した。
1907年7月27日、ルシタニアの海上公試が始まった。この時のスピード記録はそれまでの客船の歴史を塗り替えるものだったが、一連の試験航海では最高速度で航行すると激しい振動が発生したため、対策として船体の補強追加工事を行い、ルシタニアは最終的に同年8月26日にキュナード・ラインに引き渡された。
1907年9月7日にニューヨークに向けて処女航海をし、9月13日に到着した。この時、ルシタニアは新たな記録を打ち出して客船ドイッチュラントの記録を破り、ブルーリボン賞を受賞した。
オリンピック級客船との比較絵葉書に描かれたルシタニア
キュナード・ラインのルシタニア級とホワイト・スター・ラインのオリンピック級では船体構造とエンジン・システムが対照的に異なっていた。水密区画の設計については、オリンピック級は大きな防水区画を備えていただけであったが、ルシタニア級は防水区画を空間単位で分け、とりわけ片舷の損傷を考えての縦通隔壁としている。建造の際に政府から条件付(特設巡洋艦への改装が前提)で援助を受けた経緯もあり、当時としては進歩的な防水隔壁が整備されていた。石炭庫やボイラーなど重量物は船体の外側寄りに配置した。ルシタニア級はオリンピック級と異なり、乗客の定員に対して十分な数の救命ボートを搭載していた[5]。
オリンピック級客船3隻(オリンピック、タイタニック、ブリタニック)はルシタニア級より大型で、5年のちの1911年6月より運航を開始した。
運航
1907年9月13日、処女航海でニューヨークに着いたルシタニア。