ルシア・エリザベス・ヴェストリス
ロバート・ウィリアム・バス作
生誕エリザベッタ・ルシア・バルトロッツィ
1797年3月3日[1]
イングランド・ロンドン
死没1856年8月8日(1856-08-08)(59歳)
イングランド・ロンドン
活動期間1815?1854
配偶者オーギュスト・アルマン・ヴェストリス
(1813?1825、ただしその前におそらく離別)
チャールズ・ジェイムズ・マシューズ
(1838?1856、妻の死まで)
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ルシア・エリザベス・ヴェストリス (英語: Lucia Elizabeth Vestris、1797年3月3日 - 1856年8月8日) はイングランドの女優、歌手、バーレスクパフォーマーである。アルトのオペラ歌手としてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトやジョアキーノ・ロッシーニなどの作品に出演したほか、バーレスクの製作・出演により「バーレスクの最初の大スター[2]」と呼ばれている。歌手としてもよく知られていたが、劇場のプロデューサー及び支配人としてのほうが有名であった。舞台出演で財産を蓄えた後、ロンドンのオリンピック劇場でバーレスクやエクストラヴァガンザをプロデュースしており、とりわけジェイムズ・プランシェの作品で人気を博してこれで劇場は名を上げた。他の劇場でもマネージャーをつとめ、プランシェの作品を上演した。 エリザベスは1797年にロンドンでドイツのピアニストであるテレーゼ・ジャンセン・バルトロッツィと、美術商であるガエターノ・バルトロッツィの娘として生まれた[3]。生まれた時はエリザベッタ・ルチア・バルトロッツィと呼ばれており、2人姉妹の長女であった[3]。ガエターノは著名な画家で国王に仕える彫版師であったフランチェスコ・バルトロッツィの息子であった[4][5][6]。ガエターノ・バルトロッツィは美術商として成功しており、1798年に事業を売却して一家は大陸ヨーロッパに移住した[7]。一家はパリやウィーンで過ごした後にヴェネツィアに行ったが、そこにあった一家の地所はフランスによる侵略のために略奪の被害にあっていた[7]。一家は再出発するためにロンドンに戻り、ガエターノは素描を教えるようになった[8]。夫妻はロンドンで離別し、テレーゼは娘たちを養うためピアノのレッスンをするようになった[9]。 ルシアは歌などを習った後、1813年にフランスのバレエダンサーであるオーギュスト・アルマン・ヴェストリスと結婚した[10]。1819年頃までにはルシアは夫と離れて暮らすようになり、オーギュストは1825年に亡くなった[10]。しかしながらルシアは夫の死後もずっと「マダム・ヴェストリス」という芸名を使い続けた[11]。 ヴェストリスは「マダム・ヴェストリス」として1815年に18歳でオペラ歌手としてデビューし、ピーター・ウィンターズのII ratto di Proserpina で主役をつとめた[10]。1816年にはビセンテ・マルティーン・イ・ソレルの『椿事』に出演し、またモーツァルトのオペラである『コジ・ファン・トゥッテ』のドラベッラ役と『フィガロの結婚』のスザンナ役をつとめた[12]。
生い立ち
キャリアの始まりW・T・モンクリーフの『ロンドンのジョヴァンニ』にドン・ジョヴァンニ役で出演するヴェストリス(1820年頃、手彩色のエッチング)。