ルクセンブルク
大公
ドイツ語:Grosherzog von Luxemburg
ルクセンブルク語:Groussherzog vu Letzebuerg
フランス語:Grand-duc de Luxembourg
在位中の大公
アンリ
2000年10月7日 (2000-10-07)より
詳細
敬称殿下
ルクセンブルク大公(ルクセンブルクたいこう、ドイツ語: Grosherzog von Luxemburg、ルクセンブルク語: Groussherzog vu Letzebuerg、フランス語: Grand-duc de Luxembourg)は、ルクセンブルク大公国の君主(大公)で国家元首である。 1815年の成立当初、ルクセンブルク大公国はオラニエ=ナッサウ家のオランダ国王が大公を兼ねる同君連合下にあり、事実上ネーデルラント連合王国(現在のベルギーを含む)の州の一つだった。しかし、1839年にベルギーが独立した際、オランダ本土と分断された上に大公国の西半分がベルギー領(リュクサンブール州)として分割された。以後、独立国家としてのルクセンブルクの体制作りが始まった。 1890年に第3代のオランダ国王兼ルクセンブルク大公ウィレム3世(ギヨーム3世)が没した際、オランダ王位はウィルヘルミナ女王が継いだが、ルクセンブルクには女子の相続権に関する規定がなかったため、サリカ法を採るナッサウ家の家法に基づいてナッサウ=ヴァイルブルク家のアドルフ(オランダ総督・オラニエ公ウィレム4世の玄孫、プロイセン王国に併合されたナッサウ公国の元君主)が大公に即位することとなり、オランダとの同君連合が解消された。 ところが、アドルフの息子ギヨーム4世の代になって、ナッソー=ヴェイユブール家(ナッサウ=ヴァイルブルク家)でも男子の継承者が途絶えた。結局、女子の継承を可能とする法改正が行われ、マリー=アデライード、シャルロットの姉妹が相次いで大公位を継承した。シャルロットは家名をリュクサンブール家(ルクセンブルク家)と変えたが、ナッソー=ヴェイユブールの家名は現在でも用いられる。 ルクセンブルクは立憲君主制が確立されているものの、大公は儀礼的な職務のみでなく、内閣とともに行政権を執行する職能を与えられている。 ルクセンブルク憲法
概要
憲法上の役割
安楽死を合法化する法律にアンリが裁可を拒否したことによって2008年12月に憲法(第34条)が改正された後、法律はもはや大公の正式な裁可(英語版)(「承認」を意味する)を必要としなくなったが[2]、最高責任者として法律を公布するという大公の職務は残っている。 大公は給与を受け取らないが、王室は年間30万金フラン(28万1千ユーロ)を大公の職務のために受け取る[3]。2017年、ルクセンブルク予算は大公の家計費のために1千10万ユーロを計上した[4]。 大公の伝統的な尊称は「神の恩寵による
報酬
正式な称号
大公の一覧「ルクセンブルク大公位継承順位」も参照
ナッソー=ヴェイユブール家の大公はフランス語名で呼ぶのが通例となっているが、ギヨーム4世のみは、オランダ王を兼ねたウィレム1世から3世にならってオランダ語名で呼ぶ場合もある。ここでは全員についてフランス語名で記した上で、オランダ語名を括弧内に併記しておく。
オランジュ=ナッソー家
代大公家系在位期間備考
1ギヨーム1世
(ウィレム1世)オランジュ=ナッソー家1815年3月15日
- 1840年10月7日7001250000000000000?25年 + 206日オランダ国王
オラニエ公ウィレム5世の次男
2ギヨーム2世
(ウィレム2世)オランジュ=ナッソー家1840年10月7日
- 1849年3月7日7000800000000000000?8年 + 151日オランダ国王
ギヨーム1世の長男
3ギヨーム3世
(ウィレム3世)オランジュ=ナッソー家1849年3月7日
- 1890年11月23日7001410000000000000?41年 + 261日オランダ国王
ギヨーム2世の長男
ナッソー=ヴェイユブール家/リュクサンブール家
代大公家系在位期間備考
4アドルフナッソー=ヴェイユブール家1890年11月23日
- 1905年11月17日7001140000000000000?14年 + 359日ナッサウ公
オラニエ公ウィレム4世の玄孫
5ギヨーム4世
(ウィレム4世)ナッソー=ヴェイユブール家1905年11月17日
- 1912年2月25日7000600000000000000?6年 + 100日アドルフの長男
6マリー=アデライードナッソー=ヴェイユブール家1912年2月25日
- 1919年1月14日7000600000000000000?6年 + 323日ギヨーム4世の長女
退位