ルクセンブルクの歴史
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本項ではルクセンブルクの歴史について述べる。
ルクセンブルクの特徴

現在のルクセンブルク大公国は狭い国土ながらも主権を確保した独立国であるが、古来よりドイツ語圏フランス語圏の境界、あるいは両属する地域として存在してきた。そのためフランス語ドイツ語が主な母語であったが、1984年に初めてルクセンブルク語公用語に格上げされた。さらに、ルクセンブルクは多言語を操ることができる人々が多い上、人口の30%が外国人である。しかしこの多様性の中、ルクセンブルクはアイデンティティの確保に成功しており、その結果現在も独立国として存在している。このことは、1992年マーストリヒト条約を調印したにもかかわらず、それに対して国民らが懸念を表したことからも明らかである[1]

初期の歴史においては現在のルクセンブルク領だけではなく、関連する他のヨーロッパ諸国についても断片的ではあるが記述する。全般については各項目を参照されたい。
始まり先史時代の遺跡、ルクセンブルク

ルクセンブルクで発見された最古の石器旧石器時代前期に属するものである。ただし、人類自体の生活遺跡は旧石器時代後期のこととなり、ミューレンダールで発見されている。その後、ロシュプールでは中石器時代に生存していたと見られる若い男性の頭蓋骨が発見されたが、それまでのものはすべて洞窟や岩陰で発見されている。新石器時代以降は大地で発見されており、人々が森や谷から活動範囲を移動していたことが推測されている[2]

青銅器時代はヨーロッパ東部からケルト人らが進出してきた頃にはすでに始まっており、そのまま鉄器時代へ移行、ケルト人の一派でゲルマン人と混合していたと考えられるトレヴィール人らが紀元前3世紀頃にモーゼル川中流に住み着いた。その後、ローマ人らの進出が始まり、ガリア戦争紀元前58年 ? 紀元前50年)により、ルクセンブルク地域一帯はローマに征服されることとなったが、ローマ人たちは小規模な形で駐屯したため、ルクセンブルク周辺の人種構成には影響を与えることはなかった。ただし、言語構成はその影響を受けたため、ケルト語からラテン語へ重心が移動した[3]ルクセンブルクにおけるローマ時代の遺跡

ローマ支配下にあった4世紀間、ルクセンブルク周辺は平穏であり、基幹道路網の建設なども行われた。そしてキリスト教もこの時代に布教され、トゥールの聖マルティヌスが活動を行い、聖マルティヌスを頂点とする活動が行われた。しかし3世紀から4世紀にかけてゲルマン人が侵入を開始、特に406年から407年にかけてのライン地方への侵入は規模が大きくルクセンブルク周辺のほとんどがその略奪の対象となった。ローマもこれには対応しきれず、総督府をトリーアからアルルへ撤退させ、450年以降に北ガリア地域からローマは撤退、ゲルマン人支配下となった[4]

この時期以降、フランク王国の成立まではゲルマン人らの支配が続いたが、ゲルマン化が急激に進むこともなく、北部をフランク人、南部をアラマンニ人らが支配した。その後、フランク人をクロヴィスが統一したことにより、ルクセンブルクはフランク王国支配下となった。その後、カロリング王朝の成立により、ルクセンブルク一帯はその中心地域となりティオンヴィル、ロングリエに王宮が建設され、カール大帝もこの地域で重臣会議を開き、さらにはトリーアの聖マクシミン修道院にこの地域を与えている。その後、ルートヴィヒ1世840年に死去したことによりフランク王国は三分割されることとなり、この地域は長男のロタール1世の支配下となった。そしてロタールが死去したことにより、中フランク王国はさらに三分割され、この地域は次男のロタール2世が引き継ぐこととなり、ロタリンギア王国と称された。しかし、ロタール2世が早世するとその叔父である西フランク王シャルル2世、東フランク王ルートヴィヒ2世らが介入、870年メルセン条約によりロタリンギア王国は分割され、ルクセンブルク周辺は西フランク王国へ併合されることとなったが、880年リブモント条約において西フランク王国に併合された地域は東フランク王国が無理やりに奪い取ることとなった[5]
成立と中断ジークフロイト

フランク王国の分裂とその衰退は、各地の有力な人々が地域で立ち上がることを可能にした。その中の一人にジークフロイト伯爵の名前が残っている。しかし、ジークフロイトは伯爵ながらも収める地域も小さく、土地も分散していた。彼は神聖ローマ皇帝とトリーア司教の間で立場を入れ替えながら活動していたが、彼とその子孫は領土の拡大を狙っていた[6]

ルクセンブルクの名前は963年にジークフロイト伯爵とトリーアの聖マクシミン修道院との間で交わされた契約書により初めて現れることとなる。この契約は土地の交換に関するもので、ジークフロイトの所有地(約15ヘクタール)と聖マクシミン修道院の所有する土地を交換するものであったが、この地域は現在のルクセンブルク市中心部を形成することとなった。ジークフロイト伯爵の親であるウィゲリック (en) ・クネゴンデ夫妻は大アルデンヌ家の始祖であり、後にヴェルダン、バル、ルクセンブルク家の3家を出すこととなる。このジークフロイト伯爵は「アルデンヌ伯」を名乗り、「ルクセンブルク伯」を名乗ることはなく、孫のジゼルベール (en) が「ルクセンブルク城伯」を、さらに曾孫コンラッド1世が初めて「ルクセンブルク伯爵」と名乗ったことにより、事実上のルクセンブルクが形成されることとなった。ただし、現在ではジークフロイトが国の創設者であり、963年の契約書により、ルクセンブルクが形成されたと位置づけがなされている[7]クネゴンデとハインリヒ2世

さらにジークフロイトは娘のクネゴンデ[# 1]バイエルン公ハインリヒ4世に嫁がせたが、ハインリヒ4世がハインリヒ2世として神聖ローマ皇帝に即位するとジークフロイトの息子で後を継いだルクセンブルク伯アンリ(ハインリヒ)1世がバイエルン公領を託され、その権力の拡大を図ったが、トリーア司祭を手中に収めようとしたことがハインリヒ2世に見咎められ、アンリ1世はバイエルン公領を失うこととなった。その後、アンリ1世の後を継いだアンリ(ハインリヒ)2世が再びバイエルン公爵の地位を得たが、アンリ2世は早世したため、その併合は成功しなかった[8]

その後もルクセンブルク伯らは領土拡大を図っていたが、周辺には司教区が存在しており、その領域拡大は成功しなかった。しかし、8代目のコンラッド(コンラート)2世が死去したことにより男系が途絶えることとなったが、皇帝ロタール2世の命令により、ルクセンブルク伯領はナミュール伯家アンリ(ハインリヒ)4世盲目伯が継承、ここにルクセンブルク・ナミュール家が成立した[9]。さらにアンリ4世は実家の父親が死去したことによりナミュール伯爵領を1139年に継承、さらに1153年にはラ・ロッシュ (en) 、デュルビュイの伯爵領(現在はベルギー領)も受け継いだ[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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