ルキノ・ヴィスコンティ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、映画監督について説明しています。ミラノの僭主については「ルキーノ・ヴィスコンティ (ミラノの僭主)」をご覧ください。

ルキノ・ヴィスコンティ
Luchino Visconti

本名ルキノ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ
Luchino Visconti di Modrone
生年月日 (1906-11-02) 1906年11月2日
没年月日 (1976-03-17) 1976年3月17日(69歳没)
出生地 イタリア王国 ミラノ
死没地 イタリア ローマ
身長185 cm
職業映画監督脚本家舞台演出家
ジャンル映画オペラ
活動期間1942年 - 1976年
主な作品
揺れる大地』(1948年)
若者のすべて』(1960年)
山猫』(1963年)
地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)
ベニスに死す』(1971年)
ルートヴィヒ』(1972年)

 受賞
カンヌ国際映画祭
パルムドール
1963年山猫
25周年記念賞
1971年ベニスに死す
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1965年熊座の淡き星影
銀獅子賞
1957年『白夜
審査員特別賞
1960年『若者のすべて
国際賞
1948年『揺れる大地
国際映画批評家連盟賞
1960年『若者のすべて』
日本アカデミー賞
最優秀外国作品賞
1978年家族の肖像
ブルーリボン賞
外国作品賞
1978年『家族の肖像』
その他の賞
インド国際映画祭
金孔雀賞
1969年地獄に堕ちた勇者ども

テンプレートを表示

モドローネ伯爵ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti, conte di Modorone, 1906年11月2日 - 1976年3月17日) は、イタリア出身の映画監督脚本家舞台演出家貴族伯爵)。映画監督・プロデューサーのウベルト・パゾリーニ (英語版)(レイチェル・ポートマンの夫)は大甥。
生涯
生い立ち

1906年11月2日イタリア王国ミラノで生まれた。実家はイタリアの貴族ヴィスコンティ家の傍流で、父は北イタリア有数の貴族モドローネ公爵であり、ヴィスコンティは14世紀に建てられた城で、幼少期から芸術に親しんで育った[1]。ミラノとコモの私立学校で学んだ後、1926年から1928年まで軍隊生活を送った[1]。退役後、1928年から舞台俳優兼セット・デザイナーとして働き始めた。1936年にはココ・シャネルの紹介でジャン・ルノワールと出会い、アシスタントとしてルノワールの映画製作に携わった。
キャリア

ヴィスコンティはカンヌのパルムドールや、ベネチアの金獅子賞などを獲得した[2][3]

1943年に『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で映画監督としてデビュー。原作の使用許可を得ていなかったため、原題は『Ossessione (妄執)』である。同作は現在ではネオレアリズモ運動の先駆的作品と称されることもある。ヴィスコンティは以後、ロベルト・ロッセリーニヴィットリオ・デ・シーカなどと共にネオレアリズモの主翼を担う存在として知られるようになった。その後、数年間は舞台オペラ演出家として専心した。また、第二次世界大戦中にはイタリア共産党に入党した。彼は女優のマリア・テレスの助けを借り、自身の家にパルチザンをかくまった。戦後、1948年南イタリアの貧しい漁師たちを描いた『揺れる大地』を発表し、6年ぶりに映画監督として復帰。同作は第9回ヴェネツィア国際映画祭国際賞を受賞した。以後、『ベリッシマ』(1951年)や『夏の嵐』(1954年)といったネオレアリズモに根差した作品を発表した。1957年にはドストエフスキーの同名小説を映画化した『白夜』を発表。第18回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した。また、この頃にイタリア共産党を離党した。

1960年アラン・ドロン[4]クラウディア・カルディナーレアニー・ジラルド[5]らを起用したネオレアリズモの集大成的大作『若者のすべて』を発表。第21回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。ネオレアリズモが下火となった以後は、自身の出自でもある貴族の没落や芸術家を描いた重厚で耽美的な作風に傾倒した。1963年バート・ランカスターを主演に迎え、ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの同名小説を映画化した『山猫』を発表。第16回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した。1965年には『熊座の淡き星影』が第26回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した。1967年にはマルチェロ・マストロヤンニ[6]アンナ・カリーナを起用し、アルベール・カミュ同名小説を映画化した『異邦人』を発表した。

1969年ダーク・ボガードヘルムート・バーガーイングリッド・チューリンシャーロット・ランプリングらを配した『地獄に堕ちた勇者ども』を発表。ナチスが台頭した1930年代前半のドイツにおける製鉄一族の凋落を描いた。この作品は三島由紀夫に激賞された。1971年には再びボガードを起用し、トーマス・マン[7]同名小説を映画化した『ベニスに死す』を発表。第24回カンヌ国際映画祭で25周年記念賞を受賞した。同作はマーラー交響曲第5番第4楽章アダージェットを一躍有名にした作品としても知られる。原作ではマーラーをモデルにした主人公アッシェンバッハは作家であるが、ヴィスコンティはそれを作曲家に変更している。また、タッジオを演じたビョルン・アンドレセンは本作をきっかけにアイドル的な人気を博した。翌1972年にはヘルムート・バーガーを主演に据え、バイエルン王ルートヴィヒ2世の即位から死までを史実に沿って描いた歴史大作『ルートヴィヒ』を発表。ヴィスコンティは撮影中に病に倒れたが、過酷なリハビリをこなした末に同作を完成させた。しかし、左半身の後遺症は生涯残り、以後は車椅子での生活を余儀なくされた。これら3作品は19世紀後半から20世紀前半のドイツ圏の爛熟と崩壊を遡る形で描いた「ドイツ三部作」と呼ばれる。

1974年、バート・ランカスターやヘルムート・バーガー、シルヴァーナ・マンガーノを起用した『家族の肖像』を発表。ランカスターが演じた孤独な老教授はヴィスコンティが自身を投影した人物とされる。日本ではヴィスコンティの死後、1978年に公開され、異例のヒットを記録。キネマ旬報ベストテンの第1位や日本アカデミー賞外国語映画賞などを受賞した。1976年にはガブリエーレ・ダヌンツィオの同名小説を映画化した『イノセント』を発表。貴族映画の傑作として高く評価された。ヴィスコンティの作品は、日本の映画館、名画座、深夜テレビ番組でも、さかんに上映された。

同年3月17日ローマにて69歳で死去。

生涯に渡りバイセクシュアルであることをオープンにしていた。ヘルムート・バーガーに至ってはヴィスコンティの死後、「私はヴィスコンティの未亡人だ」と発言したこともある。父親もバイセクシュアルであったという。共産党員に所属したことがあったが、大変「貴族的な人物」で、撮影現場も含め常に周囲の人間からマエストロではなく伯爵と呼ばれていた。

愛用の香水英国ペンハリガン製のハマム・ブーケ。また、ルイ・ヴィトンの鞄を愛用していたが、当時は同社が有名ではなかったので、出演者が勘違いして「さすがはミラノの御貴族だけある。トランクの生地にすらイニシャル(偶然の一致で同じL.V)を入れてオーダーするとは」と感嘆したという逸話がある。
フィルモグラフィ
長編映画

郵便配達は二度ベルを鳴らす Ossessione (1943年)

揺れる大地 La terra trema: episodio del mare (1948年)

ベリッシマ Bellissima (1951年)

夏の嵐 Senso (1954年)

白夜 Le notti bianche (1957年) 

若者のすべて Rocco e i suoi fratelli (1960年) 

山猫 Il gattopardo (1963年)

熊座の淡き星影 Vaghe stelle dell'orsa (1965年) 

異邦人 Lo straniero (1967年)

地獄に堕ちた勇者ども The Damned / La caduta degli dei (1969年)

ベニスに死す Death in Venice / Morte a Venezia (1971年)

ルートヴィヒ Ludwig (1972年)

家族の肖像 Conversation Piece / Gruppo di famiglia in un interno (1974年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef