この項目では、映画監督について説明しています。ミラノの僭主については「ルキーノ・ヴィスコンティ (ミラノの僭主)」をご覧ください。
ルキノ・ヴィスコンティ
Luchino Visconti
本名ルキノ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ
Luchino Visconti di Modrone
生年月日 (1906-11-02) 1906年11月2日
没年月日 (1976-03-17) 1976年3月17日(69歳没)
出生地 イタリア王国 ミラノ
死没地 イタリア ローマ
身長185 cm
職業映画監督、脚本家、舞台演出家
ジャンル映画、オペラ
活動期間1942年 - 1976年
主な作品
『揺れる大地』(1948年)
『若者のすべて』(1960年)
『山猫』(1963年)
『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)
『ベニスに死す』(1971年)
『ルートヴィヒ』(1972年)
受賞
カンヌ国際映画祭
パルムドール
1963年『山猫』
25周年記念賞
1971年『ベニスに死す』
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1965年『熊座の淡き星影』
銀獅子賞
1957年『白夜』
審査員特別賞
1960年『若者のすべて』
国際賞
1948年『揺れる大地』
国際映画批評家連盟賞
1960年『若者のすべて』
日本アカデミー賞
最優秀外国作品賞
1978年『家族の肖像』
ブルーリボン賞
外国作品賞
1978年『家族の肖像』
その他の賞
インド国際映画祭
金孔雀賞
1969年『地獄に堕ちた勇者ども』
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モドローネ伯爵ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti, conte di Modorone, 1906年11月2日 - 1976年3月17日) は、イタリア出身の映画監督、脚本家、舞台演出家、貴族(伯爵)。映画監督・プロデューサーのウベルト・パゾリーニ
(英語版)(レイチェル・ポートマンの夫)は大甥。1906年11月2日、イタリア王国ミラノで生まれた。実家はイタリアの貴族ヴィスコンティ家の傍流で、父は北イタリア有数の貴族モドローネ公爵であり、ヴィスコンティは14世紀に建てられた城で、幼少期から芸術に親しんで育った[1]。ミラノとコモの私立学校で学んだ後、1926年から1928年まで軍隊生活を送った[1]。退役後、1928年から舞台俳優兼セット・デザイナーとして働き始めた。1936年にはココ・シャネルの紹介でジャン・ルノワールと出会い、アシスタントとしてルノワールの映画製作に携わった。 ヴィスコンティはカンヌのパルムドールや、ベネチアの金獅子賞などを獲得した[2][3]。 1943年に『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で映画監督としてデビュー。原作の使用許可を得ていなかったため、原題は『Ossessione (妄執)』である。同作は現在ではネオレアリズモ運動の先駆的作品と称されることもある。ヴィスコンティは以後、ロベルト・ロッセリーニやヴィットリオ・デ・シーカなどと共にネオレアリズモの主翼を担う存在として知られるようになった。その後、数年間は舞台やオペラの演出家として専心した。また、第二次世界大戦中にはイタリア共産党に入党した。彼は女優のマリア・テレスの助けを借り、自身の家にパルチザンをかくまった。戦後、1948年に南イタリアの貧しい漁師たちを描いた『揺れる大地』を発表し、6年ぶりに映画監督として復帰。同作は第9回ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した。以後、『ベリッシマ』(1951年)や『夏の嵐』(1954年)といったネオレアリズモに根差した作品を発表した。1957年にはドストエフスキーの同名小説を映画化した『白夜』を発表。第18回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した。また、この頃にイタリア共産党を離党した。 1960年、アラン・ドロン[4]やクラウディア・カルディナーレ、アニー・ジラルド[5]らを起用したネオレアリズモの集大成的大作『若者のすべて』を発表。第21回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。ネオレアリズモが下火となった以後は、自身の出自でもある貴族の没落や芸術家を描いた重厚で耽美的な作風に傾倒した。1963年、バート・ランカスターを主演に迎え、ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの同名小説を映画化した『山猫』を発表。第16回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。1965年には『熊座の淡き星影』が第26回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。
キャリア