ルキウス・セルギウス・カティリナ
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ルキウス・セルギウス・カティリナ
L. Sergius Catilina
ヴォルテール『救われしローマ、あるいはカティリーナ』(1784年)に描かれたカティリナ。ジャン・バティスト・ブレーズ・シモネ(フランス語版)によるエングレービング
出生紀元前108年
死没紀元前62年
死没地ピストリア
出身階級ノビレス
氏族セルギウス氏族
官職レガトゥス紀元前82年
プラエトルアフリカ属州)(紀元前68年
プロプラエトル(紀元前67年-66年)
指揮した戦争ピストリアの戦い(英語版)(前62年)
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ルキウス・セルギウス・カティリナ(ラテン語: Lucius Sergius Catilina, 紀元前108年[1] ? 紀元前62年1月[2])は、共和政ローマ後期の政務官ルキウス・コルネリウス・スッラの下で頭角を現したが執政官選挙に落選、ローマ転覆を狙ったカティリナの陰謀を起こした。キケロの『カティリナ弾劾演説』や、サッルスティウスの『Bellum Catilinae(カティリナ戦記)』(邦題では『カティリーナの陰謀』)で知られる。
経歴

ルキウス・カティリナは高貴な生まれ(nobilis)で、
心身共に力がみなぎっていたが、
その性根(ingenium)はねじれきっていた。
若い頃から殺人や略奪に手を染め、不和の中に身を置き、
肉体は信じられないほど頑強で、精神は偽り隠すことを好んだ。
旺盛な物欲を燃え盛らせ、弁舌はあっても分別はなかった。

サッルスティウス『カティリナ戦記』5.1
出自

カティリナの出身であるセルギウス氏族アイネイアースと共にイタリアへやってきたとされる。直近の先祖に執政官はいないが、サッルスティウスはノビレスとしている[3]。古くはルキウス・セルギウス・フィデナス (紀元前437年)がフィデナエの戦い (紀元前437年)に参加しており[4]、マニウス・セルギウス・フィデナスが紀元前404年紀元前402年執政武官に選出されている[5][6]
青年期

紀元前89年の執政官グナエウス・ポンペイウス・ストラボの配下としての記録が残っており、恐らく彼の下で同盟市戦争を戦い、その後スッラの下でレガトゥスとして反対派のプロスクリプティオに加担した[7][8]キケロの古註によれば、ガイウス・マリウスと同じくアルピヌム出身のグラティディウス氏族から、マリウス家に養子に入ったマルクス・マリウス・グラティディアヌス(英語版)の首を取り、スッラの元まで届けたという[9]。自身の妻や兄弟、親戚まで殺したといい[10]、彼のおじもスッラ反対派の粛清に加わっている[11]。また、アウレリア・オレスティッラという女性に溺れ、彼女と結婚するために邪魔だった自分の一人息子を毒殺したという話も残っている[12][13]

キケロによれば、カティリナはプラエトルとしてアフリカ属州を担当したとあり[14]紀元前68年のことと考えられている[15]


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