ルキウス・セルギウス・カティリナ
L. Sergius Catilina
ヴォルテール『救われしローマ、あるいはカティリーナ
ルキウス・セルギウス・カティリナ(ラテン語: Lucius Sergius Catilina, 紀元前108年頃[1] ? 紀元前62年1月[2])は、共和政ローマ後期の政務官。ルキウス・コルネリウス・スッラの下で頭角を現したが執政官選挙に落選、ローマ転覆を狙ったカティリナの陰謀を起こした。キケロの『カティリナ弾劾演説』や、サッルスティウスの『Bellum Catilinae(カティリナ戦記)』(邦題では『カティリーナの陰謀』)で知られる。 ルキウス・カティリナは高貴な生まれ(nobilis)で、 サッルスティウス『カティリナ戦記』5.1 カティリナの出身であるセルギウス氏族 紀元前89年の執政官グナエウス・ポンペイウス・ストラボの配下としての記録が残っており、恐らく彼の下で同盟市戦争を戦い、その後スッラの下でレガトゥスとして反対派のプロスクリプティオに加担した[7][8]。キケロの古註によれば、ガイウス・マリウスと同じくアルピヌム出身のグラティディウス氏族から、マリウス家に養子に入ったマルクス・マリウス・グラティディアヌス
経歴
心身共に力がみなぎっていたが、
その性根(ingenium)はねじれきっていた。
若い頃から殺人や略奪に手を染め、不和の中に身を置き、
肉体は信じられないほど頑強で、精神は偽り隠すことを好んだ。
旺盛な物欲を燃え盛らせ、弁舌はあっても分別はなかった。
出自
青年期
キケロによれば、カティリナはプラエトルとしてアフリカ属州を担当したとあり[14]、紀元前68年のことと考えられている[15]。その後紀元前66年までプロプラエトルとしてアフリカに滞在した[16]。 キケロの古註によれば、アフリカから帰国すると執政官選挙へ立候補しようとしたが、属州民たちは元老院でカティリナに対する不満をぶちまけており、ルキウス・ウォルカキウス・トゥッルス (紀元前66年の執政官)が彼の立候補を認めるかどうか元老院に諮って却下した[17][18]。 サッルスティウスによれば、前66年の12月、執政官選挙に当選したものの選挙運動法(de ambitu)違反で取り消されたプブリウス・アウトロニウスと、貧困のためやけくそになったグナエウス・ピソと共に、翌前65年の元旦に両執政官を襲い、ピソをヒスパニアへ送り込む陰謀を企んだものの事が漏れ、元老院議員まで標的としたが準備不足で頓挫した。ピソはマルクス・リキニウス・クラッススの力添えでヒスパニア・キテリオル担当のクァエストル・プロ・プラエトレ(プラエトル権限)として派遣されたが、任期中にグナエウス・ポンペイウス派に暗殺された[19]。目的は、アウトロニウスらの有罪判決を覆すことであり、成功した暁には彼らがカティリナの紀元前64年の執政官就任を後押しする予定であったという[20]。 この陰謀の裏に、クラッススとガイウス・ユリウス・カエサルがいたという説がある[21]。この二人は、ポンペイウスに対する東方でのインペリウム付与法(ガビニウス法、マニリウス法)成立後に近づいたとみられ、スッラが東方からローマ市へ帰還した後の粛清の記憶も生々しく、彼らはポンペイウスに対抗するための軍を必要としていた。軍を駐屯させておくのにヒスパニアが最適なことは、当地でクァエストルを務めたカエサルらはよく心得ており、前65年にケンソルを務めたクラッススが手を回して、ピソを送り込んだという[22]。
第一次陰謀