ルキウス・コルネリウス・スッラ
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ルキウス・コルネリウス・スッラ
L. Cornelius L. f. P. n. Sulla[1]
鼻の欠けたスッラの頭像(グリュプトテーク所蔵)
渾名幸運(Felix)
出生紀元前138年
死没紀元前78年
死没地ポッツオーリ
出身階級パトリキ
氏族コルネリウス氏族
官職財務官(紀元前107年)
元財務官(紀元前106-105年)
元法務官(紀元前105年)
レガトゥス(紀元前106-103年)
トリブヌス・ミリトゥム(紀元前103年)
レガトゥス(紀元前102-101年)
首都法務官(紀元前93年)
元法務官(紀元前92年)
レガトゥス(紀元前90-89年)
執政官 I(紀元前88年)
アウグル(紀元前88-78年)
プロコンスル(紀元前87-81年)
独裁官(紀元前82年-79年)
執政官 II(紀元前80年)
担当属州キリキア(紀元前92年)
指揮した戦争ユグルタ戦争(紀元前109年)
同盟市戦争(紀元前91年)
第一次ミトリダテス戦争(紀元前87年-85年)
ローマ内戦(紀元前87年)
配偶者イリア
アエリア
クロエリア
カエキリア・メテッラ
ウァレリア
後継者ファウストゥス
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ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(ラテン語: Lucius Cornelius Sulla Felix、 紀元前138年 - 紀元前78年)は、共和政ローマ後期の政務官ガイウス・マリウスルキウス・コルネリウス・キンナとの内乱に勝利した後、ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌス以来120年ぶりとなる独裁官(ディクタトル)に就任した。旧来はスッラをオプティマテス(閥族派)の指導者、マリウスらをポプラレス(民衆派)の指導者とする解釈がなされていたが、現在ではそのような単純な二極構造ではなかったとも考えられている[2]
生涯
生い立ち
出自

紀元前138年に最古のパトリキ(貴族)の1つであるコルネリウス氏族のスッラ家に生まれた。恐らく王政ローマ時代に設立されたとも考えられている最古の農村トリブスの一つが、コルネリウス氏族の名を冠している(コルネリア区)。

スッラのコグノーメン(第三名、家族名)を最初に名乗ったのは紀元前250年のフラメン・ディアリス(ユーピテル神官)プブリウス・コルネリウス・スッラで、その父がプブリウス・コルネリウス・ルフィヌス(紀元前290年執政官)と思われる[3]。コルネリウス氏族はローマでも有数のパトリキではあったが、プルタルコスによれば、ルフィヌスが、贅沢品を所持していたとして元老院から追放されて以降、スッラ家が何をしていたかはっきりせず、経済的にも裕福な方ではなかったという[4]。実際、ルフィヌス以降にプラエトル(法務官)は何人か出ているものの、スッラ家から執政官は出ていない。

スッラがまだ幼い頃、見ず知らずの女性に「あなたとあなたの国にとって幸福の子」(Puer tibi et reipublicae tuae felix)と呼びかけられ、次の瞬間女性はいなくなったというエピソードが残っている[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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